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語義をめぐって――森有正、しばしの別れを アリアドネ・アーカイブス

語義をめぐって――森有正、しばしの別れを
2012-02-06 11:39:19
テーマ:文学と思想

 森有正の「経験」の語義について、アドヴァイスがありましたのでご紹介いたします。 

 ” 「経験」と「体験」、森有正についてあるフランスのサイトでの説明では、

経験は experience 体験は experience ve?cue つまり実際にあった経験、体験さ

れた経験、という翻訳になっています。 ve?cue  は「生きる」という動詞 vivre の過

去分詞形です。(アクサン デギュ?と云うらしいのですが、フランス語のスペルがうまく表示できていません)

フランス語でも英語でも「経験」と「体験」を使い分ける単語はないのです。      

 つねにexperience ですね。 ”

 ありがとうございました。

 この点に関する限り、日本語の方が語彙が豊富と云うことになりますね。

 ただ森有正の本を読んでいる範囲では、経験の語の定義とは、experience v?cue 

つまり、生きられた経験、という語感を強く感じました。間違っているのかもしれませ

ん。体験された経験、というふうに解すると、実際にあった事実としての経験、つまり

認知の対象化されたものとしての経験であることになり、森の定義を使えば、体験、

つまり過去化された経験、という語感に近くなります。

 森が繰り返し語ったところによれば、経験と体験は意味の階層ヒエラルキーが異な

ります。

 経験と体験は並列関係、あるいは同一次元の意味される範囲の大小関係ではなく

て、経験が基になり、その特殊な派生態として、体験 と云う言葉を用いているように

思います。体験とは、処世知、学ばれるべき対象化された事象で在るのに対して、

そうした人間の認知や行為、活動の全領域を含む基層のようなもの、つまり「実存」

と云う語感に近いのです。

 しかし、実存と云う言葉を用いると、拡散してしまって、何事かを言い得ているよう

で何も言いえていない、もどかしさのようなものを感じてしまいます。

 観点を変えて、このように考えたらいかがでしょうか。

 森有正の経験概念には、当初、芸術作品の鑑賞とという個人的な経験があったよ

うに思います。やがてその地に住むに従って、芸術作品とそれを取り囲むフランスの

渾然一体となった風土と云う風に拡大されて行きました。森の云う経験概念の狭義

の捉え方は、一回性を帯びた芸術経験が与える臨場性に近いのです。

 森有正は、経験と体験に違いとともに、「作品」と「学}の違いについても示唆を与

えています。なにゆえ森が思想家として大成することを望まず、エセーと云う形での

表現者としての自己を選んだかの、別様の説明にもなっています。

 認知とは、人間の活動を反省的にみる行為です。特にヨーロッパ的な知とは、内

部に自己批判を内在させた固有な知であるというような意味のことを語っています。

自己批判とは、反省的にものごとを考える見方で、ここまで拡大すればヨーロッパ的

に知に固有のものとばかりは言えないのですが、その一般的遍在性に加えて森が

云わんとするのは、そのあり方がヨーロッパ的知に於いては固有なものがある、と云

うのですね。その傾向はとりわけデカルト以降、従来の形而上学的な知に加えても

のごとを計量的にあるいは数値解析的に考え効率性の支配下に於いてみるものの

見方の併存、として現れたと云うようなことを書いています。しかし、この文明史観的

な見方はなにも森に特別のことではないのです。

 体系化され、反省的思考によって捉え返される「学」的知ではなく、それを生み出

す人間的諸活動の基にある、「もの」の発見にともなう「感覚」、感覚が熟成されるこ

とで得られる「経験」、経験の持続態であることの「意志」、経験と意志が普遍性に至

る道程としての「精神」、そして究極的には「神」の概念、ということになるのではなか

ろうか、と現在の私としては思う訳です。

 森有正を理解する道程は厳しく、「経験」という中尾の峰から、遠く遥かに「意志」や

「精神」と云う高峰を遠く望見するところで、とりあえずの私の第一次の旅程を終わり

たいと思います。


 森有正の思想は、そのリゴリスティックな印象にもかかわらず、人を励ます思想な

のです。