アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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森有正への追憶・1――ヘブライズムとヘレニズム アリアドネ・アーカイブス

森有正への追憶・1――ヘブライズムとヘレニズム
2012-02-09 12:48:09
テーマ:文学と思想

 ところで森有正におけるヘブライズムとヘレニズムの関係はどうなっているのだろうか。キリスト教ギリシア文明と言い換えても良い。この両者は森有正と云う思想家の中でどのような位置関係を占めていたのだろうか。西欧と日本の関係が問われるとすれば、次に問われるべきはこの問いである。

 おさらいをしておくと、「内的な促し」によって到来するもの、それは「感覚」である。感覚とは外部性とも所与とも考えて良い。これ以上さかのぼれない人間である限りの根源である。さて、その感覚が捉え返されて「経験」となる。経験とは学的知や概念的知ではありえず、生活や文化、言語構造を含む網羅的なもので、文明とか伝統とかしか言いようのないものである。経験を内面に限定すれば、それは「実存」の語感をよく伝える。森が繰り返し語ったところによると、初めに人間なり主体があったのではない。感覚が、そして経験までは無人称である。経験が「普遍化」の方向に舵取りするする途上に於いて経験は実存として理解され、ここに初めて西洋的な「個人」なり「人間」と云う概念が成立する。人間なり主体から出発してはならないのだ。なぜなら人間なり主体は言葉であり、言葉は遅れて到来する。無人称の先‐経験は「意志」を介して永続化を願い、「思想」や「精神」の方向へと普遍化を遂げる過程で王冠のごとく言葉と云う「冠」を戴く。これは後-経験の過程で生じる。
 以上の内容に関して「 」内の用語は全て森の用語である。森有正は自分は日本人であり日本人の言語でしか考える意味を認めなかったがゆえに森関係の重要な用語に関しては原語の併記や片仮名表記をしない。ここに森有正と云う二重国籍者の複雑さがあるとみてよい。

 さて森有正の思想を時系列に読むとすれば、初めに「バビロンの流れのほとりにて」において「感覚」の発見がある。そして「遥かなノートルダム」において「経験」と云う言葉があたかもオルガンのコラールの響きのように断固とした確信の基調音を伝える。森有正の複雑さを説明するために経験概念の先後関係を分割し、先‐経験と後-経験とに分けて考える。森有正におけるヘレニズムなりキリスト教精神は感覚の発見を含む先‐経験の過程に於いて著しい。一方、後-経験に於いては、普遍化を辿る過程でそれは「意志」によって持続され、言語と云う名の冠を被ることによって「精神」となりその対象化されたものとして「思想」という形式を受けとる。普遍化とは「公共化」と云う意味が背景として控えており、公共性の概念については森は十分に展開する暇がなかった。精神なり思想がイデア的対象でありギリシア精神の遠い反響であることは明らかであろう。

 かかる意味に於いては、もう少し森がこの世における生存が許されていたならば、また生き延びて自らの思想を展開する今少しの機会を与えられたならば、ヘレニズムやギリシア精神との対峙が主要舞台となったであろうことは想像するに難しいことではない。森の後期の著作になればなるほどアルジェリア問題やベトナム戦争を孕んだ東西問題への言及が増えるのも、言語と云う王冠を抱いた精神が同時代人としての現実に復帰しようとした不器用でもあればその粘着質的なジグザグの過程を示した試行錯誤の過程であった、とも云えよう。現実世界への復帰は60年代の以降の過ぎゆく森の日本復帰の途上の旅姿でもあった。