アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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☆シェイクスピア 「冬物語」 アリアドネ・アーカイブス

シェイクスピア 「冬物語
2012-02-11 09:09:22
テーマ:文学と思想

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 いよいよウィリアム・シェイクスピアの最高傑作「冬物語」である。
 物語は、二人の王の友情と、余りにも理想的な妻を娶ったがために陥った男の猜疑と余りにも刹那的な破壊的なるものへの否定性の誘惑、その結果としての王家の家族の崩壊と、やがて春を待つ期待さながらに、破壊され毀たれた家族が破壊されたままに再建される、シェークスピアの魅力をいかんなく示す偉大なるお話しである。

 この物語の魅力は、いわれない王の猜疑の果てに死刑を宣告され、部下の妻の気転によって密かに王妃の化死が装われ秘匿され、二十年に近い時の過程の果てに様々な人々の努力の結果として王家が再建される物語である。まず語らなければならないのは王妃ハーマイオニの魅力であろう。自らのいわれなき姦通への疑い、夫婦の軋轢の犠牲者となって死ぬ王子マミリアスの死、そして姦通の結果を疑われた果てに私生児として熊や禿鷹も住むと云う異国の荒れ地に捨て去られ、最愛の者たちからも引き離されながら、泣き言を一つ云う訳でもなく、毅然として運命に堪える女性の理想像を描き出している。いわれなき悲運とそれに毅然として堪える人間像は、エリザベス朝に至るイギリス王室史の悲劇と惨劇を十分見尽くした歴史の証人、ウィリアム・シェイクスピアが生み出した理想と考えて良い。それにしても、荒唐無稽な物語であるにも関わらず、ハーマイオニの背後には、実際にシェイクスピアその人が見聞し、実際に見知っていた具体的な女性像を彷彿させるほどのレアリティを感じさせる。ハーマイオニのモデルは誰なのだろうか?

 ハーマイオニの魅力は、知的で情感あふれる比類なき気品を生みだしたことによる。かかる高貴な人間像が類型化をまぬがれているのは、彼女の運命観にある。姦通の嫌疑を公の場で問答に伏されたばかりでなく、最愛の息子を失ったうえ、生まれたばかりのわが子を私生児の嫌疑故に死罪宣告が処せられると云う悲運にもかかわらず、揺らぐことなく自らの潔白を主張し、威風堂々と弁舌を返す揺るぎなさの自信は何に由来するのか。自らの個別的な命よりも名誉を主張して憚らぬ理念的性格が平板な人間像には結びつかないのは何故か。それは彼女のやや特殊な人生観による。彼女の王者の如き人としての度量の広さは、個々の出来ごとの個別評価ではなく、よく西洋で云われるように、墓の蓋を閉じたときにその人の人生が確定すると云われるように、それを一歩推し進めて、個々の人間の生涯もまた個別的評価を超えたものがあるかも知れないのだ。人間死んでは全てお終いではなく、それで全てこの世の仕組みが合理的に説明が出来るか、と問うているのである。彼女は自らの命よりもイデオロギーとしての時代規範としての名誉の方が優先すると観念的に主張しているのではなく、人の夜の真実とは、この世の尺度よりもやや概念的に広いと云っているにすぎない。個々の人生は個別的な条件が介在するがゆえに理念の実現に関しては偶然性を排除できないと云っているにすぎないのだ。理念が歴史を貫徹するのではなく、理念は歴史によって貫徹されていなければならないがゆえにこのように主張しているのだ。このへんが武士道や日本人の教条主義的な倫理観とは違った知性の光をとどめているのである。
 実に女性と云うもう一方の存在を、かかる卓越した光源の中に描き出すことこそ、イギリス文学の伝統であり誉れなのである。そして要らぬことだが日本文学にはこの手の女性が描かれたためしはない、日本の女性も頑張って欲しいものである。

 そしてもう一人の魅力が愚かさの物語を紡ぎ出す元凶であるところのシチリア王リオンティーズである。人間と云うものは何事もないところにいわれなき悲劇を造り出すものかなとこの物語を読み終えて思う。この男が狂気の如き猜疑心に取りつかれるのは余りにも完璧過ぎる妻を持ったがゆえなのである。この理不尽な手前勝手な男の論理をシェイクスピアは一つの真迫の論理にまで高めている。一人の人間を狂気に陥らせる過程には論理や道理は必要としない、自分でも分からない感情に捕われ引き摺られるままに激情の内に身を滅ぼすと云う人間悲劇が、いささかも違和感なく説得的に描かれている。シェイクスピア喜劇の中でも幾つかの祝祭性の高い悲喜劇をロマンス劇と名付けるとするならば、この劇がそのロマンス劇の中でも一際際立つ特色は、ロマンス劇の牧歌性とリアリズムが不思議に同居している在り方なのである。それがロマンス劇の中では比較的魅力に乏しく類型的ですらあるヒーローの諸群像からこの作を隔てている。

 この物語には「オセロ」のように陰で運命を操り手繰るイアーゴーのような悪意の存在がいるわけではない。ひとえに完璧すぎる妻を持った男の愚かさだけがその結果として支払われる代償としては余りにも甚大な悲劇を生むのである。この作中唯一作者によって勧善懲悪の対象としてクマに襲われ悲劇的死を迎える王の腹心の貴族アンティゴナスでさえ、やむを得ず王の命によって生まれたばかりの王女パディータを曠野に捨て天命に任せるとはいえども、それまでは幾度となく王妃の無罪を臣として諫言してさへいるのである。彼がもう一人の腹心カミローと違うのは、カミローが、――難しい表現になるが、世俗権力と倫理の関係について自ら判断したのに対して、あくまで体制内に生きる組織人としての立場を逸脱することがなかったゆえにである。それに王によって乳飲み子の姫を殺せと言われても、自らが手を掛けるわけではなく荒野に放置し天命に任せ、一抹の運命の僥倖に期待しているのである。そう云う意味では王の腹心アンティゴナスに与えたシェイクスピアの裁断はあまりに無常だと云う気がする。そして組織内変革や体制の論理を超えて行動するのが彼の妻ポーリーナであり、もう一人の腹心カカミローなのである。矛盾と云う、二つの選択肢が仮に与えられその何れもの選択が自分自身にとって不可能であるとき人はどのように行動すべきか。カミローが選んだのはこの世から逐電することだった。つまりドロップアウトである。そして時を重ねて辛抱強く冬が終わり春の兆候が兆すのを辛抱強く待つのである。カミローが演じるのはひとえに無力さに徹した受容的な人間像なのでる。

 この女性的な、とまで云えそうなカミーロの平凡人としての在り方に比べて、同じ運命を甘受する受容的な在り方を選んだ王妃ハーマイオニの悠々せまらざる品位はただ事ではない。人間業ではないのだ。我が国の国史で云えば王者の悲劇的品格の中に滅んだ長屋王家の人々をも思わせる。ハーマイオニとカミーロは一方では神話性すら帯びている女とは言えあたりを払う王者の気品と、平凡人にとって精一杯可能であった運命からの部分放棄という両端の人間像を対比することで、物語主人公としての王妃ハーマイオニの卓越せる人間像を印象的に刻みつけているのである。事実、この物語の大団円で彼女は彫像そのものとして登場する。しかも最後は動く塑像として。

 愚かな王に出来過ぎた廷臣たちがいたように、出来過ぎた王妃には出来過ぎた配臣がいる。例のアンティゴナスの妻のポーリーナである。悲劇を前に運命を嘆くどころかこの女の行動と主張は果敢である。一方では女のか弱さと愚かさを盾に取りながら男には云えぬ論理と倫理を堂々とまくしたてる度胸はさながらのものがある。彼女の正々堂々の果敢さゆえに忠臣アンティゴナスが無能な中庸男の悲劇に追いやられて行くという側面があるが。かってドイツの女流哲学者ハンナ・アーレントはドイツの悲劇を骨の髄まで経験しながら凡庸であることの悲劇について言及したが、考えようによっては「悪霊」などにおけるドストエフスキー的な課題を先取りしているとも云えるのである。

 あれほど人間の権謀術数と冷徹な政治の力学を描き出したシェイクスピアにおいて最後の結論は意外にも、政治的妥協を説くアリストテレス的中庸の精神ではなく、個人の内面に備わっている感性と倫理は俗世や現世の論理と倫理を超える、と云うものであった。事なかれ主義は心情的には理解できるとしても、熊に食われるほど価値しかないと云う結論が彼の最晩年の述懐でも在るとするならば、これは耳が痛いことだ。せめて平凡人カミーロのような生き方を、と思っても、これまた一切を放下する生き方の中に果断さがあり、自分の中途半端さを顧みてしまう。

 「冬物語」は色々に考えさせるドラマであるけれども、最後にあの大団円に触れないわけにはいかない。死んだと思われた王妃ハーマイオニは流転する二十年に近い運命的な時間の果てに、塑像として復活する。それは生前王妃の記憶をとどめるためにポーリーナが密かに当代一流の彫刻家に造らせたものだと云う。それがようやく今完成して、和解がなった一族の前に披露される、という段取りである。
 カーテンを引くと、当然ながら瓜二つの王妃の彫像が現れる。そして皆の注目の中をその彫像が一歩前に踏み出し、全てが明らかになる。こうして苦難と困難の果てに一族の和解を寿いでこのシェイクスピア最高の傑作の一つは華やかさの中に幕を閉じる。
 
 しかしなぜ「冬物語」なのであろうか。人間流転の物語が春を待つ冬の時代の物語で在るからだろうか。間違ってはいないと思う。しかしこの物語は初めの方で姿を消す夜話好きの王子が一人いたことを思い出して欲しい。両親の不和の間に引き裂かれるようにして心因的な原因で急死した王子マミリアスの存在である。王妃の唯一の心のよりどころ、そして生きがいであった当の存在。この悲喜劇はその祝典的な華やかさにもかかわらず一人の王子の死が齎した空白を埋めることは出来ないのである。生前夜の夜話として王妃が語り、王子が語った寝物語の数々、そこで過ごされた母と子の限りない優しさに満たされた固有な子供の夢の時間、子供の存在とは単に彼自身の短くも儚い、か細く生きた存在だけであるだけでなく、与り知らぬ大人たちの世界の不和と分裂をこの上もない優しさに於いて受け止め憂いえて嘆じていた子供の存在があった。その嘆きと絶望の深さは一人の子供を死に追いやるほどのものだったのである。子供は夫婦の鎹であるとは云うが、反対に云えば子供は両親の不和を自らの罪として受けとる。子供は大人たちの諍いと分裂の落とし前を自らは与り知らぬ運命によって命運を引き受ける、ちょうど神の子イエスがそうであったように。「冬物語」とはそんな、かって夜話が好きだった、短いけれども至福の時間を生きた亡き王子に奉げられた挽歌なのである。