アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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シェイクスピア 「ヴェローナの二紳士」 アリアドネ・アーカイブス

シェイクスピア 「ヴェローナの二紳士」
2012-02-18 10:56:17
テーマ:文学と思想

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  若い二組の恋の顛末と、身も蓋もない使用人たちの駄洒落と御忠告、そして「ロミオとジュリエット」にも劣らぬ忠実な召使が出てくる、清新さにみちたウィリアム・シェイクスピア初期の戯曲である。とりわけ魅力的であるとまでは言えないが、読了後何時までも印象に残るヒロインのジュリアは、傑作「十二夜」のヴァイオラに繋がる系譜の女性である。恋というものが傍目の激情などとは無縁な、知的な人間的な営為であることを示すシェイクスピアの女性観が何であるかを知らしめる傑作である。

 物語はプロテュースとジュリアと云う恋人がいて、親友にヴァレンタインという友人がいた。恋に奥手のヴァレンタインはミラノの宮廷に人生修業に出掛け、そこでミラノ大公の娘シルビア姫を知る。同様にプロチュースにも世話焼の召使がいて、父親に人生修業を忠告する。こうして二人の親友はミラノで落ち合うことになるのだが、一方、恋の奥手であったヴァレンタインは今や華やかなミラノの宮廷でシルビア姫と相思相愛の仲になっており、一方、恋人と別れざるを得なかったプロテュースは一目見るなりシルビア姫に横恋慕をしてしまい、恋の盲目さゆえに友情も恋も信義も全てを裏切ってしまう。

 物語は、後半、疑心暗鬼と策略と暴力沙汰の事件に発展するかに見えるのだが、物語が少しも悲劇の方にぶれないのは、ヴァレンタインとシルビア姫と云うのが、よくできたカップルと云うのか、非の打ちどころのない人間として描かれているためである。特に、例によって男装したジュリアとシルビア姫の女としての友情がとても美しい。男たちの友情もあっさりしたもので、友の非理を瞬時に許すように、プロテュースも男らしく悔い改める。やりかけたことはこの上ない卑劣なことなのに、一言も言い訳しないところがこの劇作の特色であり、それがこの作に清新で爽やかな印象を与えている。

 それにしても、ジュリア!シェイクスピア戯曲中でもここまで憐れな女性が描かれたことはないであろう。かって自分が恋人に与えた指輪を、今度は心変わりした恋人が新たに恋を奉げる対象に、そのお先棒を担がされるだけでなく、自らがかって与えた指輪を差し出す役割を命じられるとは!人生と云うのは、シェイクスピアが何度となく描いたように残酷で、皮肉に満ち、この上なくアイロニーに満ちたものではあるが、ここまで至上の純愛が辱められて描かれたことはなかった。なにゆえ愛はかくも辱めを受けなければならないのだろうか。「十ニ夜」のヴァイオラといえども、ジュリアに比べれば随分と幸せである。そもそも、どうして若きシェイクスピアは女性の忍従と云うことに興味を持ったのだろうか、これは謎である。この忍従する女性像と云うウィリアム・シェイクスピア最大のテーマは、やがて晩年の「冬物語」において、この上なく高貴さの祝祭性をともなって人生を寿ぎ、シェイクスピア文学全体に対する頌歌となっているのである。

 ジュリアの人間性の高さに対して、そもそも男性たちが愛するに価するかどうかを問うことは、野暮と云うものだろう。
 一言蛇足を書きくわえれば、ジュリアとプロテュースは、アリアドネとテーセウスの物語なのである。愛の信念と忍従を語った、人類最初の女性、アリアドネの物語なのである。そう云う意味でこの戯曲はこのブログの名称の遥かなる木霊であるような気がする。