アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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グレアム・グリーン 『情事の終わり』アリアドネ・アーカイブスより

グレアム・グリーン 『情事の終わり』
2012-02-21 23:13:41
テーマ:文学と思想

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  私たち20世紀の後期以降に生きた人間たちは、原作とその映画化という二つの手段を楽しむことができる。ただ、これが自明のことではないのは、日本映画やアメリカ映画を見ていると、どうしても原作を基準に於いて、それを如何に巧みに要約し正確に再現するか、という観点に造る側も観る側も重きを置いてしまう。これはその他の国の映画でも変わらないのかも知れない。しかしこと、イギリス映画に関しては映画作品がしばしば原作を凌駕することがありえるのだ。これはイギリス映画の固有な特色なのだろうか。それともグリーンの映画に関して云えることだろうか。『第三の男』における、最後のラストシーンの改変は余りにも有名である。原作者であるグリーンも映画に対して兜を脱いだと伝えられている。
 私たちは、同一の趣向から楽しみを二度味わえると考えることもできるわけだ。

 物語は、高級官僚の世界を描く題材欲しさに、取材を目的として近づいた三文小説家が官僚の妻と図らずも恋に落ちると云うものである。メロドラマ的な構図は戦時下のロンドンと云う非日常性の中では、さもありなん、と思わせるものがある。これが単なるメロドラマに終わらないのは、小説の後半に神が現れて恋人たちとの間に奇妙な形而上学的な三角関係を取り結ぶに至る。つまり二人が人目を忍んだ初めての逢瀬に日にロンドンはあのドイツのV1のロケット爆撃を受けヒーロー・ベンドリックスは扉の下敷きになる。人妻サラァは恋人が死んでしまったものと勘違いして、神に恋人の助命を祈る。その祈りが、願いが叶えることと引き換えに自分たちの恋を諦め得ると云うものであったがゆえに、傷だらけの姿で現れたベンドリックスの姿を観たときサラァは深い衝撃を受け、他方ベンドリックスはサラァの諦めの良さに却って彼女は自分の死を望んでいたのではないかと疑心暗鬼に陥る。
 二人の情事は予感したように戦争とともに終わるのだが、再び二年後再会した二人の間に奇妙な愛の物語が始まる。度々家を空ける妻への疑惑からその疑いを高級官僚である夫ヘンリーはあろうことかベンドリックスに打ち明ける。サラァの新たな恋人とは誰か?私立探偵の執拗な追跡の果てに見出した対象とは、――サラァの恋人とは「神」であったと云う皮肉なものであった。
 この地上的な愛を求めながらも、他方神との契約を忘れることもできず、追い詰められたサラァは雨の中を彷徨い、それが原因で死んでしまう。奇妙な三角関係の決算は神の勝利に終わるのだが、自分たちの過ごした固有な時間には少なくとも神は介在できなかったと考えてかろうじてベンドリックスは自らを支える。救いの観えぬ暗澹たる物語である。

 既に、映画『情事の終わり』の四回シリーズで語るべきことは語っているので、ここでは原作と映画の違いについて、二点だけ語っておきたい。

 一つは、原作ではプロテスタントの神が出てこない点である。カソリックの作家として当然のこととはいえ、グリーンはカソリックの神とプロテスタントの神を区別して語ってはいない。唯一、キリスト教の神を語っているだけである。ところが映画では最後に父なるものが誰であるかを語って途方もないクライマックスが来る。

 病魔に捕われて昏睡状態となったサラァは、しきりとFATHERの名をを呼んだと云う。そのFATHERなるものをめぐって、それが誰であるかが映画では執拗に議論される。原作ではあっさりとFATHERとは神父様のことだと済ましているが、映画ではサラァが二歳のころ無くなった父親がプロテスタントの信徒であり、当時不仲であった母親は意趣返しのために娘に密かにカソリックの洗礼を受けさせる、と云う過去の背景が語られるのである。主題的論じられているわけではないが、享楽的な母親のカソリックとそれに馴染めなかった父親の厳格なプロテスタントが鮮やかな対比をみせ、最後はこの世で記憶に留めることはなかった前意識的な存在としての父親を通じてプロテスタントの神がおぼろげながら姿を現わしはじめていたのである。これは大きな改変と云うか、映画監督エドワード・ドミートリクの偉大なる改作であると思う。こう解釈してみて初めて今わの際のうわごとに出てくる「父」なるものの存在が説得的な意味を持ち得るのだ。
 小説、映画とも共に名作として語られ中がら、一度としてこの点についての言及がこの半世紀来、ないと云うのは実に不思議なことであると云わねばらない。

 もう一つは原題 ”THE END OF THE AFFAIR” の表題訳について。――これは当初『愛の終わり』とされ後に『情事の終わり』とされた経緯が、翻訳家田中西二郎によって新潮社版の解説で語られている。
 ところが1999年の映画リメイク版ではこれを『ことの終わり』と訳して済ましている。田中氏の解説を読まなかったのだろうか。最近の映画の翻訳者は原作に目を通さなくなったのだろうか。これは『情事』と訳さないと、ベンドリックスとサラァの抱いた愛の違いが説明できないのである。「こと」などという軽々しい語感は原作にそぐわないし、かつグリーンが「情事」という語彙に籠めたイロニーが分からなくなってしまう。
 作者の似姿をある程度は踏まえているとはいえ、ベンドリックスはグレアム・グリーンではない。彼の人間としてあるまじき激しい嫉妬は彼に神の顕現を予感させるものが確かにあるが、私は二人の抱いた神の隔絶、と云う風に捉えたい。映画の方の結末は原作とは異なって、この愛に関する思想の違いゆえに愛する地上的な愛と神への愛――この場合、多分カソリックの神だと思うが――の間で引き裂かれ、冷たい氷雨が降り注ぐ凍りつくようなあの聖堂で過ごしたあの日あの夜、ひとつの魂を舞台に、震えるような死の儀式がとり行われたのだと考えたい。

 ベンドリックスにとって愛とは、戦時下の非日常的な状況において現れた終わりあるものの対象としてであった。彼は何よりも現実の、具体的なサラァを愛したのである。一方、サラァの抱く愛はあの空襲の夜を境に、微妙に形なき愛へと変質して行った。つまり終わりなき愛こそ本当の愛であり、そのような形而上学的な愛はこの世では所詮叶えられることはないがゆえに、神と愛として成就するほかはなかったのである。このへんを読み落とすとグレアム・グリーンの小説が単なるメロドラマになってしまう。『情事の終わり』の小説としての醍醐味が味わえなくなるのだから勿体ないことなのである。

 
 なお、過去に映画、デボラ・カー版の『情事の終わり』については下記の如くである。

 

映画『情事の終わり』・1 はじめに
http://blogs.yahoo.co.jp/takata_hiroshi_320/21001999.html

映画『情事の終わり』・2 その宗教的背景
http://blogs.yahoo.co.jp/takata_hiroshi_320/21002803.html

映画『情事の終わり』・3 神との契約とは何か?
 http://blogs.yahoo.co.jp/takata_hiroshi_320/21003373.html

映画『情事の終わり』・4 ”最終場面の「父」とは何か?――古き良きイギリスの終わり
 http://blogs.yahoo.co.jp/takata_hiroshi_320/21015794.html