アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『情事の終わり』にみるカトリシズムとプロテスタンティズム・Ⅱ アリアドネ・アーカイブスより

『情事の終わり』にみるカトリシズムとプロテスタンティズム・Ⅱ
2012-02-24 16:13:31
テーマ:文学と思想

 彼女がベンドリックスの執拗な懇願をようやく受け入れて、一切を放下して乾坤一擲の思いを籠めて、自由を選択的に、自己の決断として選びとろうとしたとき、彼女を救った筈のカソリシズムが再び姿を現すのです。カソリックの宗教的位階制を受け入れると云うことは、先ほども云いましたように社会や世俗倫理の強固な仕組みをも、また受け入れると云うことでもあったことに思い当たるのです。彼女の自由への旅たちは不可能になりました。そこのところは原作ではこうです。――

”私はある神父様をお訪ねして、カトリックの信者になりたいと申しました。私は誓いのことと、あなたのことをお話ししました。私はヘンリとはもう本当の夫婦ではなくなっていると申しました。私たちは一緒にやすみません――あなたと最初の年以来です。あれは本当の結婚でもなかったのですわ、そう私は申しました。登記所へ登記することを結婚とは申せませんでしょう。私は神父様に、私はカトリックになって、あなたと結婚することはできないでしょうかと訊ねました。あなたが儀式を辛抱するのを厭とはおっしゃらないことは、私は知っておりました。ひとつひとつ質問するごとに、私はとても希望をが湧きました。まるで一軒の新しい家の鎧戸を一つ一つ開いて、景色を探しているようでした。ところがどの窓もみな真っ白な壁にばかり面していたのです。否、否、否、神父様は答えます。私はあなたと結婚できません。私はあなたと会いつづけることはできません、もし私がカトリックになるつもりなら。そんならもうそんなことなどどうでもいいわ、私はそう思って、神父様と会っていた部屋を出てしまいました。私は神父というものをどう思っているかを見せるために、ドアを手荒く閉めました。神父たちは私たちと神様とのあいだで邪魔をしている、そう私は思いました。”(p225-226

 カソリック司祭とのやり取りは、原作・第四部以降のサラァが死んだ後の葬儀の在り方をめぐるベンドリックスとのやり取りの中でも継続されます。人間の一生涯における最大の出来事である死云う出来事を、あたかも「もの」でも扱うかのように手慣れた手順で独占的に占有しようとするカソリックの在り方に対してベンドリックスの怒りは心頭に達します。カソリックの狡猾さ、抜け目なさが鮮やかに描かれます。しかしこの場面はカソリックそのものと云うよりも、既成化された宗教そのものについての記述であるよう思われます。カソリックがそうだと云うのではなく、既成性としての宗教全てに言えることです。

 ベンドリックスは、秘められたサラァの手記を死後読むことによって、慎ましい庶民としてベンドリックスと二人生きようとした彼女のささやかな願いを打ち砕いたのもまたこの宗教的ヒエラルキーであったことを理解します。

 一方、人妻サラァの内面の、人知れぬ聖域で起きた愛と葛藤のドラマについて、三文文学者のベンドリックスはどの程度理解していたのでしょうか。彼の知的水準で理解可能な愛は、所詮終わりあるもの、形あるものとしての「情事」としての愛であり、ここにグリーンによって命名された表題のイロニーと云うものがあるのですが、彼の視界はそこまでは届かなかったのです。結果的に彼女は神にも恋人にも見捨てられたのです。これがあの氷雨で濡れそぼるあの夜の、カソリックの聖堂の暗い灯火の中で起きた魂も凍るような出来事が意味するものだったのです。

 サラァは、神と人間との間で死んだのだと思います。神の愛と人間の愛との間で死んだのだと言い換えてもよいでしょう。
 原作と映画の違いは、前者に於いてはベンドリックスが死後サラァの手記を読むことによって内面のドラマを追体験するの対して、映画ではベンドリックスは嫉妬と疑惑と云う人間的な欲望にまみれたまま、自分たちの愛の形の違いに最後まで気が付かないのです。
 原作と映画の違いは、ヒロインのサラァについても云えます。映画のデボラ・カーは余りにも堂々とし過ぎているのです。彼女の気品の前にはベンドリックスはおろか、神さへも不在な寂寥の中を一人歩む英国第一流の孤高な女優の立ち姿すら感じさせます。彼女の与える印象はどちらかと云えばジッドの『狭き門』のアリサに近いのです。ただしアリサのように可憐ではなく、大女優デボラ・カーが与える印象は偉大です。その偉大さは背後に控えたイギリス社会の偉大さなのです。
 他方、原作の方のサラは遥かに人間的です。彼女は淫蕩な女性のように描かれていますが、小説を読み進むうちに、彼女の家庭環境が安定した家庭像を教えず、彼女が何一つ人間らしさを教えてはこられなかった不全性を明らかにします。彼女を溺愛した母親の生き様を通して、両親の不和とお云う問題を介してその対極にあったものの存在を暗示させるのです。映画では一歩踏み込んで、プロテスタントへの改宗を強要した夫に対する妻の反逆、意趣返しとしての娘の秘密の洗礼としてカソリック改宗の経緯が語られます。イギリス社会に生きるグリーンにとってはプロテスタンティズムの問題は自明過ぎてあまりにも当たり前のことだったのかもしれません。映画はこの点映画資本と購買力を海外をも視野に入れているために、より明示的、意識的に他国のものにも解るようにプロテスタントカソリックの問題について言及したのです。それが映画の場合、創意に富む解釈となりました。
 創意に富む解釈は、あの彼女の臨終の場面にも出てまいります。

 以下の文章は、サラァが亡くなったあと、臨終の秘蹟をめぐるサラァの夫ヘンリとベンドリックスの会話です。

”ベンドリックス、ぼくはどうしていいかわからないんだ。実に厄介なことが持ち上がっているんだよ。彼女が詭言をいうようになってから(だからもちろん、彼女には責任がなかったわけだが)看護婦がぼくに、病人はしきりに、神父を呼んでくれと言っていると言う。少なくとも、Father,Father,と呼び続けているんだが、それが本当の父親のことであるはずがないんだ。サラァは父親を全然知らないんだからね。もちろん看護婦はぼくらがカトリックではないことは知っていた。よくもののわかる女でね。どうにかサラァを落ちつかせた。けれどもぼくは困ってるんだよ、ベンドリックス”(新潮文庫P209-210 )

 ここにきて彼女が今わの際に幾度となく漏らしたとされる「FATHER」が意味を帯びてまいります。サラァの父親は彼女が二歳の頃亡くなるか離婚のためいなくなっており、彼女にその記憶が伝わるわけがないと、近親者たちは思います。それで夫のヘンリもベンドリックスも「神父」さんのことだと思いこむわけです。そして思いこんだ近親者の中には作者その人である、グレアム・グリーンも含まれていたと云ったら言い過ぎでしょうか。原作者が言いもしないことをなにゆえ私が知っているのかと云われそうですね。
 ここに「神父」とは通常はカソリックの司祭を意味し訳者の田中氏もそのつもりで訳しています。映画ではその配列から父なるものか、父なるものをつうじてのキリスト教の神なるものについて言及します。そしてこの場合その神がカソリックの神であると決めつけることはできないように思うのです。むしろ言外に遍在するキリスト教の神、どちらかと云えばプロテスタントの神であることを否定するひつようはないように思います。

 それからサラァにとって父なるものについて語った箇所が原作に一か所だけありますので、それも引用しておきましょう。

”私は神様に言った――もし私に父親があったことを一度でも思い出すことがあるとすれば、その父親に言ったかも知れぬような気持で――愛する神様、私は疲れました。”(p172)

この言葉は作品末尾のベンドリックスの最終のセンテンスと対応しています。

”わたしの心に、この冬されのムードにふさわしく思える一つの祈りがうかんだ――おお神よ、あなたはもはや充分に成しとげられました、あなたはわたしから充分にお奪いなさりました、私はすでに倦み疲れ、愛を学ぶには老いすぎました、永久に私をお見限り下さい”(p300)

 前後するこの三つの場面を繋ぎ合わせると、映画が解釈したように、プロテスタントの神がおぼろげながら姿を現わしてくるのを予感します。もちろん、何度も書きますがここで云うプロテスタントの神とは、教義として名指された対象としてでの神ではなく、イギリス社会に遍在するものとしての目に見えぬ神概念を意味します。つまり知識や情報ではなく、慣習となり伝統と化した神の姿なのです。

 このあと、ベンドリックスが感じる「怒り」は、まるで「地球の向こう側から帰ってきた」(p210)かのような「見知らぬ親戚」(p210)に対するような、あるいは神の沈黙と不在であることに対する怒りと不快感でした。しかしこの時「地球の向かい側」(同上)のように離れ離れになっていたのは実は神と自分との関係などではなくて、二人の愛の形であった事にベンドリックスはどの程度気づいていたのでしょうか。

 このように原作も映画もプロテスタンティズムの問題は主題的に語られることはなく、「FATHER」という言葉への言及も暗示程度に留められています。語られないと云うよりも遍在するものとして自明視された言外の了解事項と考えた方が正確なのかも知れません。原作者が自明過ぎて意識化できなかったものを映画に於いては父親が厳格なプロテスタントであったことを最後で明かす、という一歩進んだ構図になっています。物心つく前に離別した記憶のない父親像を通じ、もしかたら幼年期の無償なものへの――サラァは、イノセントなものに帰っていったのでしょうか。なぜならイノセントなものこそ全てを失ったものにとっての最後の聖域だったのですから。もう一つの奇跡が起きるための、サンクチュアリ