アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『情事の終わり』にみるカトリシズムとプロテスタンティズム・Ⅲ アリアドネ・アーカイブスより

『情事の終わり』にみるカトリシズムとプロテスタンティズム・Ⅲ
2012-02-25 16:55:53
テーマ:文学と思想

(Ⅲは、加筆訂正の過程で、字数制限のため、Ⅱから食みだした部分です。)
 
 イノセントなものへの関心は原作では必ずしも主題的には捉えられておりません。
 イノセントなものへのグリーンの言及は原作では、P268以降の寝室の衣装棚の中に保管されていた幼年時代のサラァの絵本類についての描写の場面で出てまいりますが、この場面は無神論者リチャードの頬の痣の神秘的な消滅を語った場面とともに一連の現象的な出来事を奇跡として秘蹟化せずにはおかない既成性としての宗教へのベンドリックスの心理的抵抗として語られる場面として設定されているのであって、イノセントそのものの意義としては意識的、自覚的に捉えられているわけではありません。
 むしろ、絵本への無邪気な書き込みをとおして浮かび上がってくるサラァの幼年期の姿と、二十数年後の彼女との対照によって、聖性に対する感受性のほかは平凡な人間として生きるための教育を何一つ身に付けていなかったらしいサラァの童女のような在り方が悲痛な感慨として、ベンドリックスに去来し彼の心を突き刺すのです。

 さて、プロテスタント的なもの。――それは教義としてのプロテスタントではなく、伝統や慣習のようにイギリスの社会と一体となったあるものですが、それが最後に姿を現します。原作者が言ってもいないことを私が言うのは空想だと思われるでしょう。それでも良いのです。それはある社会における規範力とでも云っていいようなものでした。結局、今わの際に威力を発揮するのは後天的に身に付けた知識や教養ではないのです。サラァには明瞭にいまだ見ぬ父親の姿が見えていました。父親の姿をとおしてキリスト教の神が見えていました。その神は、残念ながらカソリックの神ではなかったと思うのです。

 『情事の終わり』の第三部、サラァの手記はこのように書きはじめられていました。

”・・・・・私たちの愛が尽きたとき、残ったのはあなただけでした。・・・(中略)・・・金持ちの教えるように、浪費することを私たちにお教えになって、とうとうある日、私たちはこのあなたへの愛のほかには何も残っていないようになさったのです。”

 何ものをも所有しえぬほどの貧しさに追いやられたときに、神だけが残ると云う荒涼とした風景が展開します。そのときこの神がカソリックの神であるのかプロテスタントの神であるのかはもうどうでもよいことになってしまうのです。ここにいう貧しさとは、物質的な貧困は云うに及ばず精神的な貧困をも超えた無現放下の貧しさを意味します。だって人間としての愛すら失うのですから。愛を失うとは、この世の足がかりを失うと云うことなのです。その根源的な貧困の谷間に生きるとき、人は一個の実存となって神と対峙しなければならないのです。これが既成性としての慣習的な宗教であるはずがありません。サラァが最後に到達した神だけが目覚めている真夜中の午前零時とは、そのような時間でした。