アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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シェイクスピア 「アテネのタイモン」 アリアドネ・アーカイブスより

シェイクスピア 「アテネのタイモン」
2012-03-02 19:30:11
テーマ:文学と思想


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 『アテネのタイモン』が傑作であることは間違いないだろう。何に似ているかと云えば『リア王』に似ているので彼の真作であることは間違いないだろう。台詞も流麗であり知的である。前半がアテネ政界の指導者者としてのタイモンの栄華を、後半はその没落の明暗を描いて、劇的で、解りやすい。

 ドラマの構成や主人公の類型化は、当時、アテネのタイモンと云う人物が伝説上の人物として有名であったことにもよるのだろう。先日読んだあの難解な『恋の骨折り損』においても第四幕第三場で、これまたシェイクスピア演劇史上最も知的な人物である青年貴族ビローンの科白の中にちらりと出てくる、”批評家タイモン”として。少なくともエリザベス朝頃までは、彼についての知識は知られていたのだろう。

 この世の義理や人情、世の定めの欺瞞性を鋭く突く前半の、金銭の貸し借りをめぐる三人の友人とのやり取りを描くにしても、これは『リア王』の三人の娘とのやり取りを描く場面とパラレルの関係となっていた部分だと思うのだが、なかなかどうして、『リア王』の三人娘の類形性を遥かに超えて、シェイクスピアの人間観察が冴えわたった場面なのである。その人間の甘いも酸いも知りぬいたシェイクスピアならでのえげつなさ、人間が持つ本質的な嫌らしさを描いて、これはシェイクスピア演劇史上でも特異な部類に属する存在なのだ。

 人間の信頼に裏切られたタイモンが最終的に到達する人間性の荒野――この世の生きとし生けるものに対するあらゆる憎悪の念は凄まじいものがある。唯一、彼との主従関係を貫いた執事のフレヴィーアスに対しても個人の許しはあり得ても人間性全般に対する許しには至らない。ギリシアのキニク派を彷彿とさせる哲学者アペマンタスとの討論は本書の白眉とも言える場面だが、互いに憎悪を投げかけて終わる。

 本作は目に見えない金銭と云うものをめぐる、それに操られる人間の群像を描いて『ヴェニスの商人』との類似性を感じさせるものだが、不可視の金銭の魔力を描いてそれが何の象徴化と問われるならば、それはアテネ民主制後期の統治機構の形式化と空洞化を描いていて、これはなかなかにプラトンアリストテレス政治学を彷彿とさせて心から唸らせてしまう場面である。第三幕第五場に突然挿入される元老院とアルシバイアーディーズとの法制の在り方とその適用法をめぐる論争を描いたやや唐突な場面があるが、これなどを読むと金は魔物である等と云う一般論には留まりえない広大な歴史的背景を遥かにシェイクスピアが捕えていたことを窺い知ることができる。

 物語の結末は悲劇に相応しく、これは『ハムレット』を思わせる悲劇の終焉と新生の王者の入場で終わる。都市国家アテネを包囲し、城門を開かせ、勝利者として乗り込んだアルシバイアーディスの、許しのテーマとともに出てくる結句の重みを見よ!――

”さあ、太鼓を打て”

 の、弔いの号砲にも似た台詞は、一個の演劇を見たと云うずっしりとした感触を臓腑の底にまで響き渡らせる。この荘重さ、厳粛さは、『ハムレット』や『ロミオとジュリエット』を思わせるものがあり、遥かに『冬物語』や絶筆『テンペスト』にまで反響を伝えるものであり、シェイクスピア演劇の中枢にこの作が位置すべきことを語るものである。

 数あるシェイクスピア戯曲の最も異色な戯曲は、この『アテネのタイモン』と『恋の骨折り損』だろう。このこの悲劇とも喜劇とも史劇とも思想劇ともとれるこの二作を詳しく研究することで、今までとは若干違ったシェイクスピア像を提出することができるかもしれない。