アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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☆森有正の「経験」と社会的基層について アリアドネ・アーカイブスより

森有正の「経験」と社会的基層について
2012-03-05 10:58:37
テーマ:文学と思想

 森有正は私にとって苦手な文学者である。正直言えば、60年代に彼の名を聞いて以来、昭和の欧化主義者ではないかとすら思っていたほどだった。なぜこの人は今頃このようなことを云うのだろう。観念性の批判と云う云う事だけならばすでに小林秀雄が言っていたことだし、吉本隆明江藤淳、あるいは磯田光一などが、もっとセンセーショナルな形で展開していたことである。あの激動する60年代においてこの人の語りはいかにも地味である、と云う印象を拭えなかった。しかも背後には私の大嫌いなキリスト教もある。

 森有正がいまでも苦手な人であるのは変わりない。この人の同じところをぐるぐる回る粘着質的な体質が相いれないのだ。私は、どちらかと云えば居合抜きのように、乾坤一擲の思いを籠めて瞬間的に激しく燃え尽きる、あとには論理も倫理も残らないと云うような発想の仕方が好きなのだ。論理的であろうと欲しないし、感性的な在り方に何時も真を置いている。

 森有正との付き合いは苦手なタイプの人間を理解しようと云う試みであった。しかし、最低、この人は人間として信用できるな、という直観はあった。そして読み進むうちにこの人なりの良さが少しずつ分かっていった。経験!何と云う含蓄に富んだ言葉であることか!

 経験!森はもっと他の言葉で語っても良かったのではないかと思うことがある。森がありふれた日本語の言葉を使ったことは広範な読者層を獲得したが彼の思想をいちめん解り難くしたし、多言語の文学者としての教養や該博な学識を開陳しなかったことは、何よりも彼が日本語による思想家でありたいと望んでいたことを思い出させる。

 経験、それは言語の構造を元にして顕れる。一方では言語が、他方では「もの」としての現実が、一対一の抜き差しならぬ平衡関係にあると云う認知の訪れの事なのである。これを彼は「内的促し」とも読んでいる。言語がそれ自身の構造を持ち、記号や符号のような恣意性を離れて存在すると云う日本語とは異なったあり方は、どのようなことを意味するのか?

 森は、また別のところで、フランス語の明晰・判明的な性格について語る。フランス語は曖昧に語ろうとしても語れない言語であると彼は云うのだ。言語音痴のわたしとしては他我の格差を感知し落差に傷つき、頭を抱えるばかりなのである。

 経験は後に、「実存」との関わりの中から、自分自身が自分自身に至る経緯を経験と読んだ。実存とは、その経験を踏まえて、それが未来の方へと開いていく経緯なのである。つまり現存在を分岐点として過去の方向から射す存在の光を経験と云う。未来の方向から射す明かりを実存と云う。そして経験にしても実存にしても、森の思想においては言語となることはなかった。それは語りえぬものだったのである。

 この語りえぬ世界に留まったことに思想家としての森の最大の特色がある。晩年の森は言葉を更に展開して、経験の先に「変貌するもの」としての実存を、実存の先に精神を、精神の果てに神と宗教を観ていたようだが、その天路行程は果たされなかった。

 森の経験思想は実存の周辺を執拗に地虫の腐食活動のように這い廻るものだった。そこには物質の有機的な分解を経て浄化、生成、誕生と云う環境のプログラムが含まれているはずだったが、それに十分意識的であるためには神は彼のために十分な時間を残さなかった。だから、森が日本の言語や文化の皮相性について言及するとき、言語が外部の環境世界に於いて不可避的に受けとらざるを得ない外見、つまりヘーゲルであれば既成性とか外化と云ったであろうところのもの、マルキシズムで物象化とか自己疎外と呼ばれる両義性が十分に捉えられているとは思えないのである。

 経験と、社会や宗教の基層的な経験とは同じものである。経験が実存概念を中心に廻るのに対して、社会や宗教の基層概念は、言語の対象性としての既成性や自己疎外の両義性を含む。経験に於いては主語はあくまで「僕」であるのに対して、社会や宗教の経験的基層に於いては主語は社会それ自身なのである。社会が語り自らを表現する、社会の自己認識と存在の自己帰還なのである。

 同様に、伝統と云う言葉も十分に機能的には理解されなかったようだ。言語はある場合は経験として、ある場合は実存として固有な構造を持つが、それが本当の意味で生きるためには、人間たちの世界にあって伝統として、あるいは慣習や風習、習慣として生きなければならないのだ。言葉の固有さや詩の純粋性を犠牲にしても果たされなければならない言語の使命、それが言語にとっての「受肉」と云うことの意味なのである。言葉は私のパンであり血であり、私の肉なのである。

 私が森経験から学んだ最大の出来事は、実存を介して彼ら西洋人は神と出会う、と云う実存の神秘的な構造だった。言い換えれば実存を天秤のように宇宙の中心に据えて、その両端に一方には神が、他方には「個人」と云う概念が成立する力学的静止の構造である。自己と「もの」の内外二つの世界が拮抗しかつ釣り合うように、神と個人が釣り合っていると云う、彼ら西欧人の精神構造の不思議なあり方について示唆を受けたとき、森が言うように私たちはこの百数十年、如何なる対象と敵対しあるいは対峙し続けたかを思い、暗澹たる気分の中に沈んだのであった。このような考え方は正統的なキリスト教的な理解からすれば傲慢であり不遜であり異端とみなされるにしても。
 若き日の森が対峙しなければならなかった「経験」とは、かかる精神構造をもつ文明(注)であり他者の存在する世界であった。

 アリアドネさん、神について語ることなしに個人と云うことは語れないのだよ、そう、森が私に優しく諭しているように思えた。

                       ◇ ◇ ◇

補注:  森有正における文明と文化、あるいは、経験と体験
 文明と文化は森の経験思想の中では明瞭に区別されている。文化とは学ぶことができる対象的な知の総体である。一方、文明とは学ぶ事の出来ない潜在的なもの、伝統や習慣・慣習のようなものである。つまり対象を明証・明示的にそこだけ切り取って「認識する」ということが不可能なのだ。

 対象的な知とは、例えて言えばカメラのように焦点距離を合わせることで図形と背後の地が明瞭に区分されてでてくる認識の一様態である。しかし認識はこの他にも複数存在する。例えば認知を静態的な相に於いてではなく、行為的直観の相に於いて観る、と云うあり方も存在する。その時世界は違って見えるはずだ。また認識論に限定しても図形と地を区分しない全焦点的な神的直観、あるいは神的観照と云うものを想定することも、ポテンシャルとしては可能だろう。

 文明と文化の違いは、森の良く使う比較を用いれば、経験と体験の違いに相当する。経験に対応するのが文明であり、体験に対応するものが文化である。経験と体験の違いは存在論的な範疇の違いではなく、時間性における経験が外化あるいは物象化したものである。森はこの事態を経験の「過去化」と云うように呼んだが、それは西洋からの知識の直列的な開陳を嫌った、日本語によってものを考える思想家でありたかったこと、日本人の日本語による日本語のための哲学者であることを目指した森有正の矜持のようなものだった。