アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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森有正 「いかに生きるか」 アリアドネ・アーカイブスより

森有正 「いかに生きるか」
2012-03-09 07:26:39
テーマ:文学と思想

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 森有正の最晩年にあたるこの本には幾つかの論点が含まれている。この本の初出は1976年9月20日、翌月の10月18日に彼は亡くなっているので、このあと間髪をいれず死は森を襲ったわけだ。たしかにこの本の中でも病状に触れるところはあるにはあるが、深刻さを森自身が自覚していたとは云えない。むしろこの書を読みながら受けとった印象では森はまだ数年生きてりるつもりであったらしいが、しかし今から見ると論点には従来の調子とは違った色調、違った音調が感じられ、何か道程の上がり、誰知らぬひとりマラソンのささやかなゴール、と云う感じがしないでもない。それは多分私が一カ月後の彼の死を年譜で知っており、感傷が私の眼に映じさせるのであろうか。

 この書は昭和46年1971年から昭和50年1975年までの四つの時期の四つの講演を扱っている。会場が宮城学院国際基督教大学と云うミッション系の学校であるように、従来の書とは異なってキリスト教と信仰とが中心になっている。もはや一般の読者に語りかけなくなったというのではない。たまたまそうなったのだが、それが思いもかけない論点をこの書に提供することになった。

 私はこの中で第二番目の講演「日本人の生き方」に注目した。この講演で私は何ゆえ森が日本の読者を相手に執拗にキリスト教を語ったのかが合点できたのである。森はそれを有史千五百年の日本の歴史を振り返りつつ、例の言語の違いと人称問題からくる彼固有の言語と東西文明比較論を再度取り上げ新たな展開をみせていいる。

 日本と西欧の違いを森は言語と人称問題の違いとして論じる。例えば「ヒイ イズ ア ボーイ彼は一人の少年です」と云っても、日本語とフランス語では意味するもの意味されるものが根本的に違うのだと、彼は言う。つまり森の持論である人称的二項関係――私とあなたの関係――を基本とする日本では、人称関係は最終的には私とあなたの関係、つまりニ人称の問題に解消する。それに対して、フランス語に於いては基本は一人称‐三人称の関係になる、と云う。フランス語では基本的には言語を語る主体は、一人称である我であり、それを第三者から見た場合に三人称となる、当たり前のことのようだが、こと当たり前のことに過ぎて、ここに森が語ろうとすることはかえって分かり難い印象を与える。

 つまり一言で云えば、フランス語と云うものはそれ自体で独立した言語の存在である、と云う意味である。日本語に於いてはその独立性が弱い分、それが内外の環境や人間的関係性の中に置かれると様々に変化する。その変化が、例えば敬語の問題であると云うのである。日本語に於いては「朕」から「私」をへて「てまえ」まで、縦横の関係性の中で自在に変容する。対するに英語では、基本的には「アイ」と「ユウ」の基本形は揺るがない、と云うのは中学時代に初めて習った頃教師の口から聴いたのを思い出す。

 日本語しか知らない私の場合、そう云えば言語とは人と人との間で取り決まられた約束、その約束の結果得られる記号か符号の集合、というように思いこんできた。しかし森によれば現実とは一応独立した言語体系の自律性が、例えば法や国家概念として人間と社会を双方向において規定する、ということも可能なのである。言語を武器として例えば国家や体制を批判して革命を起こす。知識人はたった一人になっても言語の自律性に拠って世論と戦う。ソクラテスを支えたのはかかる言語と思想の自律性であったが、日本人の場合はたった一人で孤立無援の闘いを戦う場合があったにしても、それはせいぜい「信念」において闘うことでしかない。日本では「信念の人」をむやみに有り難がる傾向があるが、ソクラテス裁判が意味していたものは、日本人の信念の問題とは少し違うのである。

 そこでいよいよ日本に於いてキリスト教を語ることの意味なのである。
 森は、律令制以降の日本史をひも解いて、日本人が外国の勝れた文物を取り入れる過程で人称問題にけりをつけるチャンスが三度あった、と云う。最初は唐時代の優れた文化と治政に学んだ律令制確立期の時代。これはご存知のように摂関政治と荘園制度によって変質していく。二番目が明治維新で、これも明治期に数多くのミッションスクールでの導入や、福沢諭吉以降の優れた西洋文明に学ぶと云う姿勢に於いて、日本史における画期をなすものではあったが、ご存知のように天皇制と敗戦と云う事態へと自己崩壊を遂げる。三番目が占領下の戦後日本の現状であるのだが、一面占領軍の強力な指導と政治的枠組みがあったとはいえ、1945年以降の平和憲法と民主政治は曲がりにもスタートした。しかしこれも一定の成果を残しているとはいえ、真の日本語の自律と国民的な「経験」の熟成という観点からは、程遠い課題を未来に残している、と森は云う。

 つまり森有正キリスト教を語るとは、単に個人の信仰を語ることに加えて、日本史における目に見えぬ人類史的な課題である人称問題に決着をつけるために、人称問題をとおして日本人の国民的な課題を解決するために、重要な手段としてキリスト教が有効であると彼が考えていたことが解る。

 それにしても最晩年の森の苦悩は深い。苦悩は時に絶望の色彩を帯びることがある。
 森は例の、1972年だったかの宮城学院での夏の講演が終わってから帰る途中にある学生に呼び止められ、「先生はなぜ生きているのですか」と唐突に問われて困惑する。その場面を引用すると次のとおりである。

「これには非常に困りました。そう言われますと、どなたでも返事に困ると思いますが、その時ひょいと、私はまったく自然に、いつも考えていることばが出てしまったのです。それは「私はなぜ生きているかいうと、私はもうじき死ぬから生きているのです。私は死ぬために生きているのです」と言ったのです。これは実はこの数年来、私がたえず考えていたことで、ちゃんと立派に死ぬためには、立派に生きなくてはならない、実はもう経験、経験と言っているけれども、その最後は死しかないわけです。」(同書p175)

 つまり最晩年の森はもはや「経験」によって自らを支えることが出来なくなっていたのである。経験は死によって浸食され、罪の自覚に至る。立派に生き立派に死ぬとは、キリスト教との場合罪を自覚し、それを告解と云う手続きを経て神の元に召されていくわけです。

 そうして、死に直面して森の二項関係による日本人論や人称問題も変化していく。人称問題はもはや日欧を隔てる絶対的な相違点ではなく、西洋に於いてすら真の人間的な和合の関係に入る場合は、我と汝の関係、つまりニ人称の関係に移行する、と彼は言う。これを日本人の二項関係と区別して真の二項関係であると云う風に森は述べている。死の淵にあって跪いて祈る時神と人間の関係は、初めて私とあなたの関係に移行する。この死を前にした実存とは比較にならないが、現世に於いても恋人たちは愛の前に跪ずいて真の二項関係を予感する筈である。
 『いかに生きるか』と云う本は、森有正と云う比類なき日本人の思想家がキリスト教徒として愛の哲学を語ることに於いて一個の生涯を完結しえた、と云うふうに私は読んだ。