アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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森有正と須賀敦子の巴里 アリアドネ・アーカイブスより

森有正須賀敦子の巴里
2012-03-22 21:42:14
テーマ:文学と思想

 


 森有正がパリに留学したのは1950年であった。当時、森は当時東大の助教授の任に就いており39歳であった。学者としても人間としても一応の完成の域に達していた。また、彼が後に書いた随筆を読むと彼固有の形でどうしようもないほど日本人として完成してもいた。この固有な彼自身としての「自分」である云事が、良かれ悪しかれ宿命論的な構図の元に対象と対峙し肉薄し、その後の彼のヨーロッパ体験を基礎づけるのである。
 一方、須賀敦子が慶応の院を中退してパリに向かったのは1953年のことである。多感な青春時代の最中とでも云ってよい時期に該当し、彼女は24歳だった。確実に一歩先までは歩む不思議な幻想の靴を一足携えて、駈けだしの無鉄砲さのままに自分が何ものでもないと云う所定不住の感と、これからのち数十年にわたって付き合うことになろうとは、この頃の彼女としては知る由もなかった。
 このあと二人が辿った軌跡は、良く知られているように、森の場合は1976年の彼のパリで死を迎えるまでの26年間、――60年代の後半以降、二国間を往復する国際的な大学教授として定期的に帰国してICU等で講座を持つようになったとは云っても、本質的な意味で祖国に帰ることはなかった、と言ってよい。彼が繰り返し語った言い方を真似れば、帰れなくなった、のだと云う。西洋文明に対峙するものとしての日本語と日本人の在り方を模索し続けた森ではあったが、反面、パリに深く魅入られた者の死でもあった。自らの人生行路を旧約のアブラハムに例えた森の生き方は、何ものかであり得るための旅であり、途上の経過報告のようなものであった。何ものかであり続けたいと願ったものの旅先での孤独な死は、当時の新聞が報じたように「客死」と云う表現が異様な表現が巧みにあてはまった。26年間住んでもパリは彼の故郷にはなりえなかった。
 他方、須賀敦子の場合は、この後決定的な形でイタリアに活動の場所を移すことになり、のちに彼女の筆力によって余すところなく描きだされることになるミラノの風物詩はともかく、夫の死後、決定的展開点となる1971年の帰国後も、彼女の生涯は安定を見いだせぬまま依然として老いることなく青春の彷徨の最中にあるかのようでもあり、ようやく1991年になって彼女の一連の随筆が文学界の関心を引くようになってから、何か急速な達観が彼女自身の内面に於いて完成された観がある。この慎ましやかな聖心の無軌道の令嬢は60歳になっていた。今日、須賀敦子と云えばミラノの須賀敦子のことなのだが、最晩年の死に縁取られた光芒の激しい雲の流れを観ると、パリ体験と云うものが一過性のものではなく、何か生涯と云う台風の求心的な眼でもあるかのような虚点として、再度帰るべき決算的な約束された土地であったことが分かる。ここに於いて須賀の歩みは何ほどか森のアブラハムの歩みに似てくるのである。「ユルスナ―ルの靴」はその証である。
 森有正は哲学者であるより前の思想家としての地均しを優先させた結果、学としての纏まった成果を残すことなく世を去ったと云う意味では悲劇的な色彩が付き纏う。一方、須賀敦子は生活を切り捨てると云うよりも、生活感が、禅で云うような心身脱落する過程で文学的な感受性のみが突出してきたあり方と云う意味では、やはり東西の文明間の狭間で生きたと云う意味での悲壮感が付き纏う。二人のキリスト教に対峙するあり方も、一方はプロテスタント的(ジャンセニスム的)であり、他方はカソリック教徒として終始した観があり、幼き頃よりの強い信仰心にもかかわらず終生この二人にとって宗教が謎であったと云う意味では共通している。
 二人を比較して一文を書こうとなると大変なことだが、今はなんともこの二人が1950年代の初めに、須賀の場合は二年間と云うパリに阻まれた者としての疎外感からではあったが、同じ日本人固有の孤独観を持ちながら、灰色にくすんだパリの街を一様に彷徨い、ついに言葉を交わすこともなくすれ違ったその儚き経緯が、殊更のことのようにありうべからざる懐かしさとともに思い浮かべられてくるのである。

 一言だけ云うとするならば、対象知としての西洋文明、学びうるものとしての知識を森は戒めた。日本にいても学べるほどのものは全て学べると云う森の自負である。一方、須賀敦子の場合は裏側からも観察された自在な言語観が、明治以来のある種のハンディを自覚しながら西洋に学ぶと云う姿勢とは一線を画するものを彼女に与えていた。森の場合も須賀の場合も、そういう意味では明治以降の西洋に学ぶと云う欧化主義の終焉を何らかの形で象徴していたとは云える。そこが日本人のアイデンティティ固執した遠藤周作などのフランス体験とは自ずから違った色調を与えている。しかし三人三様の生きざまには敬意を払わねばなるまい。

(追記) 3月20日須賀敦子の命日だった。ここ三年、彼女の本を読むようになって以来その日が近ずくと何かと心騒いだものだが、今年は他の用事で東京に出掛けて、その日の昼食は上野の美術館の近くのレストランで子供たちとささやかな私の誕生祝いを兼ねた時間の至福性の中においても、その後巡った上野の森の春を待つ華やぎや、国立西洋美術館は「ユベール・ロベール――時間の庭――」の特別展を経巡る地下通路の古代的時間が齎す特権性が卓越した閉ざされた永遠的時間の最中に於いても、一度として須賀敦子のことは思い出さなかった。彼女への憧憬の度合いが後退した筈はないのだが、昨年の3・11以降の日々は、公私に関わらず何かと気忙しくなったのを感じる。退職後の時間は、未だ安閑とした時間を与えてはくれないようだ。老後の時間が、以前想像したものとは余程違っていることは意外であった。