アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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シェイクスピア 『ロミオとジュリエット』――純粋さを超えて無垢であること  アリアドネ・アーカイブスより

シェイクスピア 『ロミオとジュリエット』――純粋さを超えて無垢であること
2012-03-24 16:08:52
テーマ:文学と思想

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 ロミオとジュリエットの話は私たちの世代では、むしろバーンスタインの「ウエストサイドストーリー」においてなじみ深い。原作の翻案とは単なる改変ではなく、時代に引き継がれていく必須のものとしての解釈学と同等なのである。戦後のアメリカ社会における、昨今問題性を増したヒスパニック系移民の問題をテーマに据え、シェイクスピアが全く与り知らない知らない音楽的表現を与えたことは、文学史的にも音楽史的にも重要な事例であると考えて良い。60年代と云えばビートルズの音楽が語られることが多いが、バーンスタインが齎した功績もまたこれに比肩しうるものだと考える。

 シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」のテーマは、純粋さを超えて無垢でありうるとはどういうことなのか、ということを語る物語であるように思われる。この物語におけるヒーローの性格設定は、終始何ものかを激しく思慕しているほかない人間、憧れの炎に身を焼きつくすほかない、かのロミオ・モンタギューなのである。物語の悲劇は反目しあう二つの貴族間の対立であるよりも、純粋さを超えて無垢であることがこの世に居場所を欠くと云う意味での半ば宗教性を帯びたものなのである。

 この物語が素晴らしいのは、そうしたロミオの性格を知ってジュリエットが愛を受け入れたと云うことである。これは何でもないようにみえて大変なことなのである。世俗の価値を超え、素直に愛と神を寿ぐことが出来るのは、この二人が凡人ではなく生まれながらにして聖者であることを語っている。修道士の知恵を信じて仮死の薬を飲むのは彼女の愛が如何に真正なものでああり揺るぎのないものであったかを物語っている。純粋であることを超えて無垢なる人であるロミオは不吉な予感に導かれて、こともあろうに早とちりをしてあっけなく死んでしまう。それを観て全ての経緯を達観してジュリエットもその後を追う。人の命の何と軽きことか。これ以外のどんな解決方法があったと云うのかと問うことはできても、この物語の重要なテーマは命の軽さ、生き急ぐ若者たちの生命の燃焼に対するいとおしみであることは変わらない。けっきょく、純粋であることを超えて無垢であると云うことはこうしたものなのだ。純粋さを超えて無垢であるとは、この世に生きるべき占める場所が無いと云うことなのだ。この世に居場所が無いとは、別様の意味に於いてこの世を超えると云うことなのだ。それは聖性の顕現と云うより他に表現の方法を知らず、かかる宗教性の顕現のみがその圧倒的な卓越性において、宿命的な世俗のあらゆる構図を克服しうるのである。

 「ロミオとジュリエット」は本質的な意味で悪人が存在しない物語である。無常感は人は如何にあっけなく死んでいくものかを語り、それはロミオとジュリエット自死に於いて頂点に達する。愛の純粋さと無垢であることの卓越は、なまじ宗教であっても世俗の価値観であっても手が届かないほど高い領域の物語なのである。二人の悲劇を未然に防ごうと様々な人々の営為があり活躍があるが、象徴的なのは一方では宗教界を代表してフランシスコ派の修道士が、他方では酸いも甘いも噛み分けたわけ知りの乳母の営為があり、まるでかれらの善意に囲まれるように、彼らの善意に満ちた優しさの地上的な願望を遥かに超えて聖性は燦然と輝き自己を全うするのである。キリスト教では最も重い戒律の一つと考えられている自死についての逡巡が全くないことも特筆されてよいことだろう。

 「ロミオとジュリエット」の燦然とした輝きとは生きてある人間であることの輝きなのである。その輝きを前に宗教も世俗的価値も手が届かないほどの彼方の問題なのである。