アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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☆熊野純彦 『和辻哲郎』 アリアドネ・アーカイブスより

熊野純彦 『和辻哲郎
2012-03-27 10:44:10
テーマ:文学と思想

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 六十も過ぎれば平家の平知盛のように「みるほどのことはみつ」と云う心境になりがちだが、こと学問に関しては、その奥深さと云うか、自分の無知を承知で云うのだが、社会人大学院で学ぶようになってから、このところ発見に次ぐ発見の連続である。学問の領域は広大で、しかも奥深い。今回、熊野の同書を読んで今まで見知っていた和辻哲郎の全容を知って自分自身の無知を反省し、侮蔑の気持ちで顧みていた戦前の人間たちの生きざまに敬意を払うべきことを教えられた。

 『大和古寺風物詩』を読んでいて、読み流していた次の言葉、――

「昨夜父は言った。お前の今やっていることは道のためにどれだけ役に立つのか。頽廃した世道人心を救うのにどれだけ貢献することができるのか。この問いには返事ができなかった」 

この、過去に微かに記憶にとどめて読み流した言葉が新たな印象を持って甦ってくるのを感じた。この、決して分厚いとは云えない本を何度も何度も感動のために読むのを中断しながら読み継ぎ読み進めた。熊野の和辻の倫理学を中心に纏められた本書は小著ながら語るべき対象について筆者の愛情が満ち満ちていて久々に学者とは良いものだ学者生活の交友はいいものだなと思った。と云うより、あの戦前の大戦に大きく傾いていく冬の季節に和辻を始め、西田幾多郎九鬼周造三木清、戸坂潤らの京都学派周辺に生きた者たちの、埋もれていた群像を発掘した意義は非常に大きいのである。

 確かに彼らが彼らなりに時流に抵抗した足跡は今日では見分けがたく大政翼賛の影と見分け難く混淆している。しかし彼らの事績を辿ってみれば其処には、驚異に価するとまでは言えないにしても、彼らの彼らなりの学理の論理に即した執拗な抵抗の跡が読みとれるのである。抵抗の「跡」は「痕」とみまがうまでに苦渋に満ちた紆余曲折の傷痕の跡がはなはだしいものであったにしても。

 和辻哲郎について語るべき論点は多く、いまだ焦点を定め得ない。
 ここでは有名な和辻の間柄論だけ触れておきたい。和辻の、人間とは何ぞやと問うてその応答としてある「間柄」とは、ハイデガーの「死に縁取られた現存在」概念との対峙の中から生まれてきたものだと熊野は言う。間柄が個的個人の個体史と異なるのは、そこには誕生から死までの生涯を超えて未来と過去の両方向における間柄の自然史が横たわっているからにほかならない。間柄とは、誤解を恐れず極端に云えば共同体の歴史のことなのである。和辻の念頭に批判的対象としてあるのは一方で生物学的な個的生命であり、他方ではアダム・スミスらの経済人の概念やマルクスの下部構造のことなのである。何が違うかと云えば、近代的な学問の細分化されたより精密化された概念を用いるのではなく、具体的な日常的な性における、愛と涙を含んだ伝統と文化や文明の主体としての人間であり人間たちなのである。なにゆえ日本語に於いては名詞が単数であると同時に複数であるのか、つまり単に「人」と云う場合は個的単数の個人であるとともに複数の人間たちであるのか、それは人間とは何ぞやと問われて、人と人との間柄、人間の関係性こそ人間の定義であると云う和辻の持論の繰り返しにならざるを得ないのである。

 和辻の言動は体制内の学者なりの地味な抵抗の歴史であったが、何時しか目立った抵抗勢力の消滅に伴い彼自身が時代思潮の先端に押し出されてしまうと云う皮肉な事態に立ち至る。戦争末期に至っては海軍省の外局に属する政府参与として少なからざる役割を果たすことになる。これが戦争責任を問われるまでには至らなかったが、戦後和辻が学者としての影響力を失う理由の一つになるのだが、しかし戦前と戦後を同一の論理で潜り抜けた和辻はそれなりに一貫していたと云うことが出来る。換言すれば、戦前の自らの履歴に頬かむりし、戦後民主主義のリーダーたることを無邪気に表明した大多数のものより余程人間として正直であったと云えるのである。

 西田の間柄論なり国家論の難点は、和辻が生まれ育った日本の村落共同体の親和性が基本構造にあると云う点だろう。日本の伝統的な社会とは何事も話し合いで進める合議制の社会である言われる。これが勘違いされて戦後の民主主義定着の理由の一つとなったのは皮肉だが、和辻の間柄とは他者性が無いとまでは言わないが、微弱な愛と善意に基づいた農耕民の村落共同体的な思想のいち表現なのである。ここにかけているのは、話し合いのテーブルに着くのではなく、そもそもテーブルそのものが無い場合にそれを何処から調達するのかと云う発想の不在である。品の悪い言い方をすれば話し合いが成立するのは何時の場合も無条件であるわけではなく、そもそも、その条件が無い場合に如何にテーブルを調達し、彼らをテーブルに着かせるかという論理の強制力の問題も含まれていたに違いない。早く云えば、理解の程度の低い話を聞こうともしない相手を如何に黙らせるか、である。事実和辻の後の世代の吉本隆明などがやった例はこれである。日本の伝統的村落共同体に育まれ、アカデミズムの中で生涯を生起させた和辻には吉本のような品下がる相手との会話は必要としなかったに違いない。それが和辻の書くものに対する品位を与え、かつ学問的成果としては限界となったのである。

 読み終えて思うのは、戦前の冬の谷間の世代を生きた西田、和辻、九鬼、三木、戸坂らの印象は不思議と若々しい、大成を拒むかのように何時までも青春の瑞々しさに溢れている。この五人の内の二人までが獄中に死んだ。和辻の書物の背後に潜むトーンは、生き急いだものへの愛惜と、生き残ったものの務めと云うものを、溢れるような懐かしさの感情とともに甦らせ自らの来し方を密やかなる回想に赴かせるのである。西田や和辻、九鬼はともかく、何時の日にか三木や戸坂の本にもあたってみたいものである。