アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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辻邦生 『夏の砦』 アリアドネ・アーカイブスより

辻邦生 『夏の砦』
2012-03-29 20:35:50
テーマ:文学と思想

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 『夏の砦』を読みながら、その文体の契機力に驚かされた。それは主人公の分冊をなすノートなるものが、いちエンジニアの手によって書きうつされるという体裁からも、いよいよその非凡な文体は辻邦生のような文芸の専門家ゆえに成し得ることであって、タピスリー専攻のうら若き女性のよく成し得ることではない。つまりこの小説はその体裁にも係らずレアリズムの小説ではないのである。

 染織工芸に魅せられた女性が、図版で観た「グスタフ侯のタピスリー」を求めて北欧ととある町に滞在し、そこで巡り合った貴族の末裔である二人の美しき姉妹との交流を通じて、ヨットの旅に出たまま行方を断ってしまう、と云う単純な筋の中に、北欧の歴史的風物と、主人公がかって過ごした日本の旧家の重い空気が堆積したかのような幼年時代が回想される、と云う体裁を取っている。しかし北欧の博物館を訪れた主人公の目に、かってのタピスリーは芸術的感興からは遠く、色あせた民芸品の一種としか映じない。自分の中から失われたものとは何だったのだろうか、この推理仕立ての動機が一本のか細い虹のように、血統を証だてる一筋鮮やかな血管のように物語を導く一本の導線として辛うじて読者の関心を繋いでいる。

 この緻密な芸術家小説を読みながら私は辻邦生の長所でもあれば欠点でもある、物語の結構が計算し尽くされた理知の光によって再構成されていることを改めて感じた。芸術の囚われない自由さは一面、それは恣意性とも捉われかねず、それが現実に密着したダムやトンネルの建設技術の具体性と比較される(小説の語り手がロマン的な感興とは縁のないいちエンジニアとして設定されていることは辻の配慮だろう)。それは芸術観から云えば趣味性の時代であり、アイデンティティの発達史的には幼年時代に該当する。ロマンティックな夢は手強い現実の登場によって修正される。誰しもが経験する通過儀礼である。その間の事情を、兄や叔父の歩んだ人生行路の光芒によって語る。その極め付きは祖母の死を通じて得られた無機質的な死生観であり、死はそのものとして「事実」として、生物学的な有機物分解の次元にまで還元されるのである。

 事物は単に孤立した事物としてあるわけではない。事物はそれ自身の由来を持ち、それ自身の中に未来と過去を含んだ具体的な生としてとしてあるべきものを、いつしかそれを能率や効率の観点から評価する科学の見方によって抽象的な「事実」の世界に還元されてしまうのだ。主人公がグスタフ侯のタピスリーに関心を失ってしまうのは、知らず知らずのうちに彼女の内面を変質しはじめていた即物主義的なものの見方、世界観なのであり、失なわれたものとは幼年時代の旧家の重く澱んだ時間の中で過ごした固有な時間性なのである。この時間的なもののみ方こそ、敗戦時の父親によって空襲で焼け落ちる広大な館を後に禁句として残された予言だったのである。この予言にいかに抗い、固有な時間性を恢復するかと云うのが、この小説のテーマなのである。

 この小説のクライマックスは幾つかあるけれども、やはり最後の方に出てくる、ヨットの旅に出る前に博物館を訪れ、日没で視界が溶解するまで凝視しつづけ、夕焼けに照らされた壁面を未だ見ぬグスタフ侯のコンスタンティノープルへの十字軍の燦然たる入場の凱旋を幻視する場面だろう。十字軍遠征に纏わる様々な幻滅と失意にも失意にも係らず、晩年のグスタフ侯に訪れる恩寵の時なのである。

 幻視されたグスタフ侯の恩寵の時が同時に主人公にとっても幼年時代の回復を通して芸術家誕生への前史ともなっている。グスタフ侯が民衆の意識の一端を理解することで恩寵の時に至るように、小説の主人公もまた北欧の小都市の片隅で名もなく生きて忘却される庶民の実存を学ぶことによって「事実」が示す冷酷さを乗り越えようとする。しかしこの小説の最大のイロニーは、芸術家として蘇生した筈の主人公が美しき姉妹の妹の方と行方不明になる結末である。知性的な作家である辻邦生にしても、結末を目出度し目出度しとは書けなかったのである。主人公が語り手に書き遺した遺書のようなものの結びには、謎のような言葉――

「真昼の永遠の光の下で眼を覚ますために、深いねむりに入りたいと今はそれだけを考えているばかりです」

と、云うものだった。

 つまり幼年時代のもののみ方の回復は一人の芸術家の誕生の意義を伝えることはできても、現代では、生活者としては生きる術が無い、と云うことなのだろうか。そこまで純粋に昇りつめた芸術家意識に対応する現実はもはや存在しないと云うことなのだろうか。
 それでいまは、離島の別荘で自給自活のような生活をおくる兄の隠者めいた生き方が称賛されもするのである。つまり生き得るとしても、現代生活との関係を合う程度制御しうるような経済的な保証が必要なのである。そのような見方で観る時、あの戦前の旧家に生息した祖母や、母や、叔父や、そして実務と学問の狭間で苦悶したらしい父親――意外と冷淡な描かれ方をしている!――の生き方が、現実とのある程度の距離間の上に築きあげられた半ば人工的な工作物であったことが思い出されるのである。

 旧家の一族の生き方が半ば人工的であったように、幼年期の回復もまた余りにも理性によって整理されていると云う気がしないではない。『夏の砦』は前半と後半で気にならない程度の分裂を秘めており、私には「序章」のやや偏執的な少女と、語り手に出会った後のヒロインの幼年時代が、つまり小説の前半と後半の人間像がどうも一致しないのである。序章のやや残酷さと偏執とを秘めたナイーブさは、少なくとも後半には感じられない。それから幼年期の回復と云っても、序章の幼年時代には過去への愛情と云うものが感じられないのである。むしろ小説を後半まで読み進んで島で過ごした夏休みの思い出を通してやっと恢復すべき時が実感されるに過ぎない。所謂「失われた時」と云っても、プルーストの小説の中に描かれる祖母や母やレオに叔母への愛憎こもごもの実感とはかけ離れているように思われる。旧家の中に澱んでいた、実感を欠いた人間関係としては魂を蘇生する力としてはどうなのだろうか。過去性と云うよりも、辻の場合、人間との関係性を欠いた固有な自分だけの時間と云う意味が強い。それが芸術家誕生の意識を支える根底として機能しうるか、と云う問いは最後まで残る。

 最後に『夏の砦』は辻が、一時師事していた森有正の、例えば『バビロンの流れのほとりにて』における、経験の思想、と対応しているのではないかと強く感じた。この小説の中で絶えず通奏低音のように出てくる旧家の庭にあった樟の巨木は、森有正のエッセーに出てくる新宿角筈にあった二階の書斎から見える、遥かな浄水場の堤に聳える巨木に似ている。この巨木は、森の場合も辻の場合も、回復されるべき過去として登場する。この巨木は森の場合形を変えてフランス時代には地面から競り上がるような森、有機体としての二つの尖塔、ノートルダムとして再現するし、本作では最後の場面に出てくる、史実としてはありえなかった燦然とした十字軍のコンスタンティノープルへの入場、その凱歌と興奮を伝えるグスタフ侯の炎のタピスリーの幻想として登場することになる。
 森の経験とは、一言で云えば、近代主義の事実主義に毒される以前の、多元的な有情の泣き笑いする抒情的な現実性のことであってみれば、森の経験思想をある種の肉付けとともに同志的な意気と誇りをもって再構成したのが『夏の砦』とも云えるような気がする。