アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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生き急ぐ聖性――『ロミオとジュリエット』の場合 アリアドネ・アーカイブスより

生き急ぐ聖性――『ロミオとジュリエット』の場合
2012-03-30 06:03:00
テーマ:文学と思想

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人々はなにゆえ四百年以上にもわたって「ロミオとジュリエット」の悲恋の話を伝えたか。恋の情熱の中にしか生の実感を感じることが出来ないロミオ、そしてつまらぬ諍いから命を落として行く若者たち。シェイクスピアはしばしば行ったこともないルネサンス期のイタリアを舞台に戯曲を描いた。遠い異国を舞台に借りて、刹那的な生き方を通して、若者たちの哀歓を描いた。

 ミュージカル『ウエストサイドストーリー』と『ロミオとジュリエット』の違いは、トーニーとロメオの性格の違いにある。『ウエストサイドストーリー』のトーニーは、若者たちの諍いを通過儀礼として卒業しつつある常識人として描かれている。『ウエストサイドストーリー』の哀しさは、そんな大人としての彼が、青春と云う名の義理ゆえに運命に巻き込まれていく、と云うところにある。
 一方、シェイクスピアの主人公の方は、愚かな若者たちの一人として描かれている。むしろ絶えず恋をしていなければ現実感を感じられない恋多き青年の一人として描かれている。その愚かさは、前後の理路を冷静に判断する分別よりも、瞬間的な生の実感に懸けると云う生き方である。そんな生き急ぐ若者たちの生き方を、まわりの大人たちは何とかしようとして、策略を用いてまで配慮をしようとするのだが、若者たちの短慮を誰一人として救うことは出来ないのである。宗教も世俗の常識も彼らを救うことは出来ない。まるで『かぐや姫』のように神に愛された者の聖性は、それを留めることは出来ない。シェイクスピアの原作は、ミュージカルのやや教訓臭さを超えて、只管に哀れである。通常、冷徹とも酷薄とも云えるシェイクスピアが彼自身の複眼的な持ち味を捨てて、つまり大人としての視点を捨てて、ここでは青春そのものの危うさの秘密に迫っているのである。

 人間の運命に対する非情さよりも、それを時の経過の中で達観しようとする視点は、『ジョン王』から『ヘンリー八世』に至る史劇と云う分野において、純粋な野望ゆえに、あるいは権謀術数渦巻く政治的リアリズムの過程に消えて行った激動期の多くの死者たちの群像を思い出させる。そうした政治的混乱期の終焉として英国史におけるエリザベス王朝と云うものはありえたのだし、シェイクスピアの文芸も英国文学史に燦然たる固有な国花の華として、その時代に花開いたのである。シェイクスピアの史劇の登場人物たちが死力を尽くして闘った後に力尽きて従容として運命に従うように、『ロメオとジュリエット』の愚かな若者たちもまた、運命を呪うこともなく劇の幕間に消えて行く。ここには人生の儚さを一篇の劇の感興に例えた『テンペスト』の、シェイクスピアの「一期は夢ぞ!」との思いが揺曳し木霊している。『ロミオとジュリエット』を読み終えて感じるのは、愚かさゆえに滅んで行ったものたちへの慰霊、彼ら死者たちに手向けられた生きてあることの威厳なのである。

 『ロミオとジュリエット』が何時の時代に制作されたかは難しい問題を孕むのだろうけれども、若年の頃であるにせよそうでないにせよ、この作に感じるのはシェイクスピアの老性、そして老熟である。これを純粋に青春の物語として賞味することも可能だが、若者たちの危うさをどうしても防ぐすべもない大人たちの非力と無力感の物語としても読むことが出来る。結果が、不利な方に不利な方に、危険な方向に向かうのが分かっているのに、それを防ぐ有効な手立てもなく、何時の世も若者たちはその危険を承知で、不利な方の道を選ぶ生き方の危うさ、そしてそれに謂われなく同調して右往左往した挙句に傷つく大人たちの物語、『ロミオとジュリエット』はそのような物語としても読むことが出来る。若き日のシェイクスピアの心の疼きが遥かなる木魂として、青春の日の傷痕が聖性にまで高められ清められ、神話として時を超えて到来する、完全無欠の物語として読むことが出来る。生きてあることの純粋さは、如何なる言説も教訓をも要しない。

「この悲しいできごとをさらに語り、許すべきは許し、罰すべきは罰するとしよう。世に数ある物語のなかで、ひときわあわれを呼ぶもの、それこそこのロミオとジュリエット恋物語だ」(ウィリアム・シェイクスピア