アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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☆九鬼周造 『「いき」の構造』――「神」の視座に於ける人間の愛 アリアドネ・アーカイブスより

九鬼周造 『「いき」の構造』――「神」の視座に於ける人間の愛
2012-04-12 21:08:30
テーマ:文学と思想

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・ この書を読みながら、「いき」と「粋(すい)」が違うことを多田道太郎の解説で初めて知った。 「粋」とは今日では半ば死語の範疇に仲間入りしているかにみえるが、シックやエレガンスと呼んでいるものに近いのではないかと思う。多田は「粋」とは関西由来の概念であると云うのだが、九州出身の私には良く解らない。語源詮索がどうであるにせよ、シックやエレガンスと云う外来語に半ばは引き継がれたものとみても良いのではなかろうか。

 さて、『「いき」の構造』の作者が与えた説明は、アリストテレス的である。良く知られているように九鬼は「いき」を説明するに、媚態、意気地、諦め、という三つの用語によって説明する。アリストテレス的であると云うのは、媚態とは素材(アリストテレスの用語では「質料」)であり、残りの二つは契機、あるいはそのものをそのものたらしめる「形相」である。

 加えて、媚態とは、単なる自然主義的な実在、単にある在り方ではなくて、無限の緊張関係を孕んだ自らが起動する在り方なのである。媚態とはコケットリーであり、主客が合一するのではなくして、あるいは決定的に離反するのでもなく、距離を解消させないようにしながら即かず離れず(不即不離)、お互いが強く引き合う男女の手練手管、愛のエモーショナルな機構を云う。九鬼は愛をここまで技巧的なものとしては語っていないけれども、極端に言えばそう言うことだろう。
 九鬼の語るところはこうである。

「媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。」

 つまり男と女とが出会うと云うことが、こういう表現になるのである。単に「愛しています」と言えばいいものを、「我は汝を自己に対して措定す!」と、こう、女に語りかける訳である。このような形で愛の告白をされて、これを良く受け止め得る日本女性が当時いたとは思えない。伝記作家が伝えるところによると、若き日の九鬼は親友の妹を思慕して手酷い失恋体験をしたのであった。

 「いき」はまた、「意気」でもある。正確には「意気地」と書いている。九鬼はこれを武士道から説明しようとするのだが、このへんが通常理解されている江戸前としての「いき」と九鬼の「いき」概念の違うところである。「いき」とは戦前までの社会に於いては遊郭花柳界と云った色街を含んだ町民階級の美意識として理解されてきたのが一般通念に近いのではないかと私などは思うのだが、それを武士道としたところが如何にも九鬼らしいと云えば云える定義の仕方だ。極端な言い方をすれば江戸前の「いき」とは、封建社会における身分制に対する町人や庶民の反感と反発心を元にした、平民的の美学の一種であると私などは理解してきたのだが、九鬼の与えた定義は「武士は食わねど高楊枝」、つまり異性に対する「反抗心」を本質とする。前記の若き九鬼の失恋体験を閲すれば、さもありなん、と思わせる。『葉隠』の山本常朝などにとって武士道とは狂ひ死にすることであったから、九州の田舎武士の恋情などは後に述べる「野暮」の典型になるのだと思う。

 さて、「いき」を定義する今一つの契機、「諦め」について、――九鬼はこれを仏教から借りてくるのだが、九鬼の創意の卓抜さはここに極まる。「意気地」を武士道の概念で説明しようとするところもなかなかに良かったのだが、「諦め」という概念を仏教的世界から挿入するにおよんで、たまげてしまった。
 恋とは、真剣になりすぎたり、反対に手練手管の単なる技巧に堕したのでは、「野暮」になってしまう、と九鬼は言う。ここに至って私はたまげる、と云うよりも九鬼の感性に惚れ惚れしてしてしまった。
 つまり『椿姫』のアルマンのような愛への没入やラクロアの『危険な関係』のような愛の手練手管は「野暮」が「無粋」になってしまうのである。

 諦め、つまり諦観とは、この世の出来ごとの事どもを、思い諦める心情の心の澄みかたのことである。諦めとは、単なる心の弱り、ポテンシャルの低下ではなくて、この世のことどもを目に見える「全体」として見極め、思い諦める理知的な行為のことである。かけがえのない自分の生き方を、一個の個的実存を局地戦として捉える戦略、戦術的レベルに拘泥することなくそれを超えた一種の達観である。達観とは、悟りきることではなくて、人間の一個の一生が偶然性と恣意性の相の元に現れる、と云う意味である。つまり哲学的学理学説としてはプラトンイデア論は質料と形相の本源的一致として、本質的実在としてあり得この世を照らすものとしてあり得るけれども、この世の事どもとは所詮、恣意性と偶然性に晒されたものであり、本質と現象、質料と形相が一致することもあればしないこともある、というこの世的なあり方の固有性、人知を超えた特殊な在り方――「この世性」を理解することなのである。かかるこの世の眺め方、それを「無常」と云う。無常とは悟り澄ますことではなく、また自己合理化による観念の整理でもなく、アリストテレス的質料と形相の一致、つまり実人生とは異なった超越性の顕現、それを説明するものとしての学理学説の輝かしさを理解するがゆえに、それとしばしば背馳した在り方をせざるをえない個々の人間の偶然的な在り方、その有限性をかけがえのない有情のものとして、哀憐の気持ちとして顧みる「神」の視座の如きものなのである