アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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井上泰至 『雨月物語の世界』 アリアドネ・アーカイブスより

井上泰至 『雨月物語の世界』
2012-04-14 14:52:38
テーマ:文学と思想

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・ 『雨月物語』の怪異の世界が、秋成のリアリスティックな観察に基づいている、と云う指摘は示唆に富む。物語と云うのは、零落しつつある小地主の末裔である勝四郎が七年間も郷里を留守にしている間に、妻は夫の帰宅を待ちながら死んでいったと云う、何ともやるせない話なのだが、井上は「浅茅が宿」の大詰めのところをこのように解釈する。つまり、今は亡き妻と一夜を夢の中に過ごした、ふと目覚めた真夜中、一切が明らかになって勝四郎が思う心のぶれに井上は注目する。つまり、今見たばかりの夢幻の世界を狐や狸のような魑魅魍魎にたぶらかされたか、それとも妻宮木の霊であったかと思案する場面である。つまり亡き妻に対する悔悟や悔悛の情と云った単なる感傷的なお話しではない。勝四郎の潜在意識は、前者の異界性の方を望んでおり、本当は人間の恨みや妄執の方が怖いのである。それゆえ妻宮木の辞世歌を見つけて、自分への恨みや辛みが無いことを確かめた後に、初めてこの身勝手な男はこの世もあらぬ様にて泣き崩れるのである、と。つまり悔悟の涙とは、自分の身の保証がなされた後のことだったのである。
 そう言えばこの種の経験は、より拡大された形で戦後の日本人が均しく経験したことではなかったか。死人に口なしとは云うが、死者の事情とは常に生き残ったものの事情なのである。また、反面死者は寛大な心で後の世を生きる者たちの心がけを許す、と云ったこともあるだろう。許さぬこことの、不寛容であることの典型は「吉備津釜」などがそうなのであろうが、生者が死者の無念さを糺す「菊花の契り」などは対極にあるものだろう。再会を約束した友情に報いるために霊魂となって飛んでいくと云うお話しである。奇妙なことに秋成の世界に於いては至上の情を描くにおいては男女の愛では不足したかのごとくである。「白峯」や「青頭巾」で妄執と化した男を救うのは男の友情と云うより、仏道や歌道に熟達した達者の心映えなのである。

 『雨月物語』を、伝奇ものとして読み下すだけでなく、秋成の生涯をも併せてみると、その予言性が何とも皮肉である。秋成は養子入りした大阪の商家の家産を傾け、妻にも死別して、その心細りする様は「浅茅が宿」そのままであった。自らディレッタント足ることを任じ、生前の草稿を井戸に転じたと云うが、その様は「夢応鯉魚」の自在性への憧れそのままであった、と云う。実際にはそんな生き方すらもまな板の鯉なのであり、この世への恨みが鬼神と化す「白峯」や「仏法僧」の世界まではほんの一歩のところまで追い詰められてもいた。
 彼は宣長のような熱狂が大嫌いであった。芭蕉のような軽みや洗練とも無縁だった。常に孤独の中に人懐かしさを求めた芭蕉のような、本当に人間を愛すると云う契機を欠いていた、と井上は言う。西鶴のようにも生きられなかったし、あえて言えば近松ならば話を聞いてくれたかもしれない、そんな気持ちがする。