アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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上田閑照 『西田幾多郎 人間の生涯ということ』アリアドネ・アーカイブスより

上田閑照 『西田幾多郎 人間の生涯ということ』
2012-05-02 10:14:39
テーマ:文学と思想

 「回顧すれば、私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前に座した。その後半は黒板を後にして立った。黒板に向かって一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである。」
西田幾多郎 「或る教授の退職の辞」(1928年)より

 

紆余曲折に満ちた七十五年間にわたる一生を、僅か三行に於いて云い得ると云う事はどう云うと事だろうか、と言う書きだして上田閑照の『西田幾多郎――人間の生涯ということ』は書きはじめられている。いうまでもなく黒板に向かって座すとは学生時代のことであり、黒板を後にして立つとは教授時代の事である。つまり全生涯を教師として生き切ったという感慨がこの単純さの中には籠められている。一方、数行に籠められなかった人生の苦渋と云うものを、言外に語ってこの発言は感動的なのである。

 この書は西田幾多郎に関する評伝ではないということわりにも関わらず、西田の生涯に関する事績を丹念に追っている。とりわけ彼の学問や交友関係に関する記述はやや淡白で、家族を含めた彼自身の周辺に関する記述に生彩がある。記述の仕方も委曲を尽くす、というのではなく、時に簡潔すぎるがゆえに却ってその衝撃度が強く伝わってくる。例えば長女の弥生や長男の謙の死去を伝える部分では悲哀と慟哭を言外に読まねばならない。

 従来も西田に関する類書は二三読んだけれども、この書の特色は難解を持ってなる所謂西田哲学そのものについては殆ど語っていない。西田の生涯を語るに、人生、歴史社会的性、境涯、という三つのアプローチの仕方に基ずいて西田幾多郎という近代日本の代表的な思想家の生涯を再構成したところに特徴がある。

 「人生」において西田の生い立ちを語り、生涯の紆余曲折を語る。「歴史社会的生」において、東西文明間の問題として二千数百年の時幅と文脈において西田を語り、近代史的観点からはここ数百年の潰え去る日本近代化百年の夢と挫折の文脈に於いて語る。最後に「境涯」において七十五年の生涯の期節点について語る。

 さて、この三つのアプローチの中で一見して分かり難いのは三番目の、「境涯」という耳慣れない上田の言い方ではなかろうか。人生、生涯、境涯、それぞれはどのように異なるのか。本書を読めば、人生と境涯を合わせたものが生涯、と云う風になっている。つまり境涯と人生は殆ど重なっており、死の自覚から反転して自らの生を終わりあるものとして捉えたとき「境涯」とは云うらしい。 もちろんこれは著者が言っていることではない。著者の定義はもっと含蓄に富んだものだが、あえて乱暴な纏めをするとそうなるのではないかと思う。

 境涯が、人生とも生涯とも違う今一つの理由は、境涯が人生なり生涯なりが自分史の終点近くに立って発想されるものの考え方であるのに対して、西田の生き方に照らして「境涯」という観点を読みこんでいる点である。一つは41歳にして『善の哲学』を書いたころ、二つは58歳の時京大教官を定年退職した辞を述べた頃である。これは代表的なものを二つ書いただけで、その時々に於いて西田には死の覚悟、と云うべきものがあった。この常に既に死の覚悟に於いて自らの生涯を客観し、自分の人生は黒板を視点として一回転しただけの単純なものであった、と言いきった処に「境涯」と云う観点が成立するのである。

 しかし今の私にはそんな言葉の概念上の詮議などはどうでもよい。『善の哲学』の著者と云う近づきがたい存在である西田の生涯上の紆余曲折を読むにつれて、人事でないような親しさを感じてしまった、と書けば失礼にあたるだろうか。紆余曲折というより七転八倒と云うに近い生き方をしてきた私などから親しみを感じるなどと言われても西田には迷惑なことだろう。西田には上田が本書で書いているように、漱石について和辻哲郎が語ったと云われる「漱石はその遺した全著作よりも大きい人物であった」と云う意味での、思想家としての範囲を超える人物であったというのも確かなことだろう。上田も書いている。――

「いろいろな機会に、よく私は西田幾多郎に会ったことがあるかと尋ねられまあす。そのたびに、戸惑い、そして自分でも不思議な感じになります。私は西田先生に会っていませんので、「会ってはいません」と答えますが、そう答えながら、同時に、会っていないことはあり得ないような気持が残ります。」(同書あとがき)

 西田幾多郎の生涯をその逝去まで辿り、名残りがたく本書を閉じるとき、西田の生涯はどんなに多くの肉親や知人縁者の死に隈どられていたかと云う感慨を禁じえない。しかし翻ってみれば誰の人生に於いても大概はこの程度の事はあるのではないのか。それを常に既に死の自覚性に於いて語らなかったからではないのか。とはいえ、西田に先立つ家族のものの多くの死はやはり特異的だと云う気がする。生後間もない次女の死からうちつづく肉親の死、終戦の年の、西田の死に僅かに先立つ長女の死について上田はあえて語るを得なかった。そして苦楽を共にした妻の長い療養の果ての死についても、そして将来を嘱望されていた長男の早すぎる23歳の死についても・・・。破れかかった長男のコートを着ている由来を聞いて弟子の木村素衛は涙を抑えるのに困ったと云う。

 私は、西田が死んだときあの鈴木大拙が柱に寄りかかって泣いた、と云う記述には驚いた。禅僧でも泣くんだ、と思った。私の師匠はカントだと思っているのでカントには西田のように臨終の床で泣いてくれる人がいただろうか、とあらぬことを考える。ただ一人仕えた従僕は厳直一本のカントとの交際に空しさを覚え最晩年に至ってアル中になり業務を遂行できなくなり辞表を提出したと云う。これは後世、カントの行状を面白おかしく伝えただけで、本当はあの偉大なカントの晩年を見たくなかったのだと勝手に解釈しておく。

 そんなわけで、西田が大好きになった、とだけ書いておく。


西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年6月17日(明治3年5月19日) - 1945年(昭和20年)6月7日)