アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

『草枕』 那美さんの熊本 ――『草枕』その歴史社会的的背景――明治初期の熊本と云う土地と地霊 アリアドネ・アーカイブスより

草枕』 那美さんの熊本 ――『草枕』その歴史社会的的背景――明治初期の熊本と云う土地と地霊
2012-05-09 10:57:17
テーマ:歴史と文学

漱石の『草枕』に描かれ那美さんの生まれ育った近世から近代に至る熊本とはどういう処だったのだろうか。 

http://ts4.mm.bing.net/images/thumbnail.aspx?q=4685689609650603&id=b875eeca899160037dff5c5404d85ec2&url=http%3a%2f%2fwebkoukai-server.kumamoto-kmm.ed.jp%2fweb%2fjyosetu%2frekisi%2fimages%2f7kumamotokyujyonanmennozu.jpg

戦国時代以前の肥後と云う国は、地侍とか土豪とか呼ばれるものの勢力が強く、統治が難しいと云われてきた。それが江戸期になると一転して、中央寄りの国に変身する。九州と云う、中央から見れば遠隔地の、何やら政情不安の原因にもなりかねない独自の地域のもやもやを、その中央の位置に於いて司る、換言すれば中央の出先機関の所在地としての位置を見出すのである。この位置づけの真価が問われたのがキリスト教徒最後の蜂起であるともに、戦国期最後の内乱とも云われた天草の乱時に肥後藩が見せた対応である。つまり出先機関である由縁の先頭打者として諸藩に先だって奮戦してみせなければならなかったのである。この後遺症が、例えば森鴎外の『阿部一族』などに描かれているのだが、肥後藩のような地方の大藩は江戸幕府にとって痛しかゆしのところがあって、準親藩に近い待遇であったにせよ肥後のような雄藩が多少疲弊することは歓迎すべきことだったのである。しかし薩摩や黒田、そして鍋島に対する抑えとして、疲弊しすぎても困るのであった。つまり西国の重しとしての肥後藩とは、表向きは面目を立てながら生かさず殺さず、と云うのが本音のようなところがあった。

http://castle.link-hp.net/img/166.jpg

 こうした肥後藩であったから、幕末の長州征伐時は大いにその役割が期待されるところであった。しかし実際は動いたのは親藩である小倉の小笠原藩だけであって、孤立した小倉城は長州軍のまえのあえなく炎上した。この段階で親藩の一つである小笠原藩の孤軍奮闘を救い得ないことは、江戸幕府の権威を大いに失墜させる象徴的な出来事であった。しかし実際には、細川、黒田、鍋島と云う、九州地方の雄藩は尊王攘夷を巡って内紛が絶えず、藩論を統一出来ずにいたのである。肥後もまた、肥後勤皇と云う討幕運動の拠点のひとつでもあった。

http://webkoukai-server.kumamoto-kmm.ed.jp/web/jyosetu/rekisi/images/img_kumajyo_01.jpg

 さて、幕末の肥後藩は容易に藩論を統一出来ずに、所謂、バスに乗り遅れる結果となった。明治政府に対して目立った抵抗もしなかったので、そのまま藩主が知事に横滑りする結果となった。そのころ肥後藩を二分する勢力は学校党と呼ばれる藩校を基盤とした旧態然の保守勢力と、肥後の実学党と呼ばれる、日本のアダム・スミスとも呼ばれる横井小楠を中心とするグループに二分されていた。実学とは日本流の国富論、と考えればよい。しかし横井小楠は、その名前が示す通り勤皇の主旨と無関係でもあり得なかった。つまり実学党は肥後勤皇党と呼ばれる部分とも重なり合っていたのである。

 肥後藩はこうしたお国ぶりの特殊性を見せながら、御一新の世を迎える訳であるが、五カ条の御誓文にも尽力があったとされる横井が一時明治新政府内で優遇されたという事情もあり、これを好機と肥後の実学党は県政の諸改革に取り組んだ。この肥後の春とも云えそうな政治的高潮期があえなく潰え去った背景には、いうまでもなく中央政府の干渉と、横井その人の京都高瀬川河畔での有名な暗殺事件があった。実学党の人たちは武断派的な色彩がなく実務家肌の人が多かったせいもあり、さしたる物理的抵抗もなく自然消滅した。明治十年の西南戦争の西郷を迎える肥後藩とは、かく藩論を支える有望な支持母体を欠いた、百花繚乱的な状況にあった。

 明治維新前後を境として西南戦争に至るまでの肥後藩の政治的状況はとても興味深い。
 上記に書いたように、決定的に藩論なり県政を支える支持母体が無く、学校党系と実学党系が大きな二大勢力であることには変わりが無い。この二大勢力を中央に配置して、右側には肥後勤皇党の残存の部隊がいた。そして更に右側には極右勢力として、明治六年の反乱で有名になる大田黒伴雄率いる新風連と呼ばれる神国一致の過激集団があった。これは生前の三島が決起の前に墓参したことで有名になった青少年たちのグループである。
 他方、もう一つの極には左派としてルソーの民約論を読んで感激した熊本協同隊と云うフランス革命を理想とする左翼急進主義のグループがあった。また、同じころ肥後熊本には独自の形でプロテスタントの思想が伝えられ、後に徳富蘇峰や蘆花で有名になる「熊本バンド」と呼ばれる青年たちのグループもあった。神の前の平等と云う思想は、同じころ民約論を読んで感激したと伝えられる熊本協同隊と植木学校に結集した田舎の青年たちの動向を思わせて感慨深い。 

 つまり後の日本近代百年の歴史に登場する主要な役者たちの全ての原型がこの熊本と云う、地方の限られたこの地域にこの時期、同居していたと云うのが興味深いのである。
 そこのところを簡単に整理して見ると、次のようである。

・神風連(肥後敬神党
肥後勤皇党
・学校党(藩校・時習館
実学党と熊本バンドのグループ
・熊本協同隊と植木学校

 この興味深い各党諸派が日本国内最大にして最後の内乱である西南の役に於いてどのような己が主体的な足場を保持したか。また乱以後どのようになったかを簡単に書いておく。
 最大グループである学校党はその大半が西郷軍に合流し、九州脊梁山脈を南下する中南部を転戦した後有名な城山の闘いと西郷の自刃において歴史から武装軍団としては姿を消す。しかし生き残ったメンバーは尚意気盛んで、官軍を相手に奮戦し負けた気がしないなどと主張してそのまま県政にしぶとく居座った。明治政府もこの自分たち以上に旧態然とした頑固な保守主義者たちを利用可能なものとして放置した。これが後のち戦後史においても自民党のような保守政党を支える有力な地盤となり、55年体制を支える一方の極として保守王国と称される県勢の原因となった。
 実学党は中央と地方に於いて同時に影響力を失い、横井の共和主義の思想は歴史の表面から忘れさられていった。地域に残った有志たちは、例えば昨日読んだ安住恭子の『「草枕」の那美と辛亥革命』に出てくるように、地域のために粘り強い活動を展開したがその多くは伝承の黄昏に消えた。実学党の思想がその後の熊本の近代史に何ほどかの痕跡を残し得たかどうかを、現在の私は確認していない。
 それ以外の小グループ、新風連がどうなったかはマイナーではあるが既に歴史上有名な一事件である。電信柱の下を通るときは扇子を翳して通ったと云うほどのイデオローグの集団であるから、武器も刀と槍だけで新政府の近代兵器に対抗し、あえなく踏み潰される結果となってしまった。この戦略性なき見境のない無謀さ、純粋性がいたく晩年の三島由紀夫を感激させたのは有名である。佐賀や萩の乱、あるいは西郷の西南の役などと云う相次いで生じた明治初期の類似の反政府的な政治的行動とは決して同調せず、弧軍で蜂起した挙句自滅の道を自ら歩んだ点に彼らの純粋さ、弧高さ、その思想の卓説さの由縁が表現されている。
 
 他方、ルソーの民約論に感激した熊本協同隊は、「戦略的」に西郷軍との共闘を選んだ。彼らの主旨は、一旦は西郷軍と共闘し、しかる後西郷軍と戦えばよい、と云うものであったと云う。つまり明確なイデオロギーの相違を認めたうえでの戦略的な政治的選択であったことがわかる。敗戦が決定的になった段階に於いても玉砕を選ばなかった。死活を分かつ岐路は各人の自由な選択に任せたのである。これが彼らの民約論を読んで得た結論であった。
 熊本バンドのグループは離散し、京都で再起を決し同志社のグループの基礎を築いたと伝えられている。明治期におけるキリスト教の伝道が主にプロテスタントであったことは、明治の青年たちがこの教えに人間の自由と平等を読みこんだことを示している。神を信じる信じないではなく、神と対峙する人間の自由意思の思想が、ルソーの民約論の廻りに集った協同隊の青年たちと同様に、明治の青年たちを熱狂させたのである。

 『草枕』の那美さんが生きた明治初期の熊本とはこうしたところだったのである。明治30年の暮れ、漱石は前田卓こと那美さんに初めて会う。西南の役から二十年もたち、そろそろ人々の意識の中から内乱の記憶が「歴史」へと形を変え伝承の彼方へと遠ざかりつつある、最後の戦後の残照とでも云える最後の時期、明治の青春の名残りが光を放つ最後の季節であった。

http://ts4.mm.bing.net/images/thumbnail.aspx?q=4730868386038283&id=73eae47496f86982c489726a2693398f&url=http%3a%2f%2fstat001.ameba.jp%2fuser_images%2f8d%2fc4%2f10073258610.jpg

 

 「おや源さんか、又城下へ行くかい」
 「何か買物があるなら頼まれて上げよ」
 「そうさ、鍛冶町を通ったら、娘に霊厳寺の御札を一枚もらってきて御呉なさい」
  ・・・(中略)・・・
御婆さんが云う。「源さん、、わたしや、お嫁入りのときの姿が、まだ眼前に散らついて居る。裾模様の振袖に高島田で、馬に乗って・・・・・」
 「そうさ、船ではなかった。馬であった。やはり此所で休んでいったな、御叔母さん」
 「あい、其の桜の下で嬢様の馬がとまったとき、桜の花がほろほろと落ちて、折角の島田に斑ができました」
 ・・・(中略)・・・
「志保田の嬢様が城下へ御輿入れのときに、嬢様を背馬に乗せて、源兵衛がはずなを牽いて通りました。――月日のたつものはや早いもので、もう今年で五年になります」(『草枕』(二)より)

 若き漱石は、茶屋の御婆の話を聞きながら、英国の詩を思い浮かべたりハムレットの一場面を思いだしたり、「これは絵になる」などと嘯いて高等遊民を発揮するのだが、それがどんなに大きな勘違いであったかを、『三四郎』と『それから』以降、苦しみながら少しずつ学び、やがては死闘と呼ぶまでにその対象に肉薄していくのである。
 
 『草枕』は、那古井の出来事からほぼ十年が経っていた。それから二年後に漱石は『三四郎』と『それから』を書く。この二年間こそ、最も長い明治の二年間であった。