アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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竹田敦司 『物語「京都学派」』アリアドネ・アーカイブスより

竹田敦司 『物語「京都学派」』
2012-05-15 14:40:01
テーマ:文学と思想

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 いわゆる京都学派に関する本は多い。この本の特色は、最後の京都学派と言われた下村寅太郎の没後に見出された手紙やメモ類を通して、つまり最新の情報を通じて、読み物風に、あるいはコラム風に、随想風にまとまたものである。
 二番目の特色は、京都学派の由縁を、東大哲学科との対比を通じて明らかにした点である。官僚養成所としての東大の位置づけ、あるいは夏目漱石などの官学嫌いは、学者であるよりも官僚であることを優先させる東大の人事にあったかと思わせるほどである。後に、三木清は東大の哲学にすすんだ後、京大の西田の基に入り直したほどである。
 三番目は、コラム風の自在な語り口ゆえに、300ページに満たないほどの分量でありながら、50名を超える「京都学派」の人材を伝えたことである。京都学派を終始カッコつきで書いていることも本書の特徴ではあるのだが、いままで西田直系に焦点が絞られてきた同学派の紹介の経緯に対して、戦後著しく評価を下げた田辺元に多くのページを割いているのも特色である。特に田辺の欧州留学生活や、作家野上弥生子との関係に言及する場面は本書の白眉である。北軽井沢を舞台に、70を過ぎた同年代の男女の間において燃え上がった、これを友情と云うか恋と云うか、それは世界でも類例のないものであると云う。しかもその時期が弥生子の晩年の代表作『迷路』の大詰め部分の執筆の時期と重なっていたと云うのであるから、これは見逃せない。
 四番目は、「学派」成立の与件ととして、京都と云う濃密な土地空間の「狭さ」に就いての言及である。職場と互いの家や下宿があるいて通えるほどの、つまり学問と生活の全部が人体のモデュールにおいて包み込まれていた、と云う点に特異性をみる。つまり京都学派とは、日本では珍しい都市の学問だったのである。
 しかも、京都学派とは「京都」に名を冠していても、京都と云う土地に準拠する学問ではない、西田が語ったように全日本から西洋を視野に置いた自覚的な思想集団だったのである。しかも、かかる「京都学派」が、地のでが下村寅太郎一人と云うのは、つまり殆どが外から京都に来たった人材であったことは、この学派を特色づける。つまり都市の学問ではあったかもしれないが、都会的なセンスとは無縁だったのである。(和辻哲郎九鬼周造を除く)
 つまり、日本の近代は、人と土地との靭帯を切断した。故郷から遠く切り離され、京都と云う特異な排他性を持つ日本に於いて稀有の都市空間の中において、京都大学と云う疑似共同体を唯一の頼りとして勉学に励む師弟一体の疑似血縁態としての学問運動であったと云う、日本近代の特殊性がここから浮かび上がってくるのである。
 そうした「京都学派」ではあったが、その幕引きを、地の京都人であるがゆえに盛期においては「学派」と一体化することは出来ず、それでいて戦後東京に在って生き字引のように、学派の多様な人材の生き死にを見聞したのが先述の下村寅太郎であったことが何ともイロニーに満ち象徴的であると云うのが著者竹田敦司の弁である。

 先日読んだ藤田正勝の『京都学派の哲学』の違いは、「学」の紹介ではなく、「学」の周辺に集った人間たちの「物語」であることに由来する。何となれば、著者も云うように、人間ほど面白いものはないからである。この書が物語である所以は、対象に向かう評価軸が、著者の謙遜にも寄ろうが、恣意的であり趣味的な主観性を免れない、あるいは自在さを生かしているゆえにである。

 それにしても、西田とならぶもう一人の総帥田辺元には、その学問以上に人間として興味を持った。この人の意外な側面が死後半世紀も経って現れたと云う事は、資料類が類縁者が絶えるまで慎重に保存されていたと云うことによるのだろう。もう一つ、田辺の外向きとプライヴェートを峻別する生き方も与っているのだろう。ここには真面目一方で苦しみながら思索した「哲学者」西田幾多郎とは異なった、もう一人の詩人哲学者の姿を彷彿とさせる。作家・野上弥生子は「大店」の「奥さん」であり、着のみ着のまま北軽井沢に住みついた田辺夫妻とは経済力に於いて天地の差がある。二家の間にたまたま交流が生じたと云うのも、歩いて十分という近さもあっただろうけれども、病弱の妻を抱えた田辺への、特にその妻の寄る辺なさへの野上の良家の子女らしい「余裕ある」同情があったことは確かだろう。それで、それが却って心理的な負荷となって野上と田辺を近づけるようでいて遠ざける。二人が急接近するのは、田辺の妻の死を通じてである。多分、幸少なかった田辺の妻・千代への不憫さが高じて弥生子に帷子を手ずから縫わせたのだと思うのだが、この亡き妻を思う心情の高貴さゆえに、二人を近づけたのであろうと想像する。田辺の妻・千代には不思議な性別を超えた魅力、つまり童女のような純粋さといじらしさが同居しているようなところがあったのだと思う。

 こうして教養の質に於いて、これもまた男女を超越したような教養の持ち主である人間そのもののとも云える野上弥生子と、他方、戦後凋落著しいとはいえこれは又西田幾多郎と拮抗する一方の総帥田辺元との間に、空前絶後とも云える、愛と学問を論じる言説空間が出現してたのである。一人の教師に一人の生徒、しかも教師田辺で、生徒が漱石門下の法政大学学長夫人で作家の野上弥生子であると云うのだから、この当時、一番豪華な授業が日本の一僻村、北軽井沢村で行われたことになる。

 田辺の求愛の手口が素朴と云うか何とも手が込んでいる。リルケとルー・アンドレーアス・ザロ―メの関係を「講義」として論じながら、徐々に70歳を越えた弥生子の中に「女」を甦らせていく。夫。野上豊一郎との結婚は偽装結婚であることは世間周知のことであったから、もしかして弥生子はあれほど博学ではあっても、初めて女の道を学んだのではないかと考えることは、楽しい。
 ニーチェリルケとルーの関係は良いとして、竹田は書いていないが、当時進行中であったハイデガーハンナ・アーレントとの戦後の関係について、田辺は知っていたのだろうか。竹田は書いていないのだが、戦後、終始ハイデガーの哲学との対決を意識していた田辺が知らなかったということはあり得ないような気がするのだが。