アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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西田幾多郎を読む二冊――魂とは何か? アリアドネ・アーカイブスより

西田幾多郎を読む二冊――魂とは何か?
2012-05-17 17:20:31
テーマ:文学と思想

 


西田幾多郎に関する二書を読んで、いまだ総括的に論評する立場にないことを感じる。一読して、西田幾多郎は手強いな、と云う実感である。この二書の特色は、上田の『西田幾多郎を読む』が、禅的な経験を基本とした理解であることが他の類書とは違った特色かと思う。西田の純粋経験から晩年の場所論まで懇切丁寧な解釈が加えられているが、ときにその表現は禅的であり、読者である私を余計に混乱させる。一方、小坂の『西田幾多郎の思想』は簡潔であり、論理明快である。入門書としては小坂の方がお勧めである。ただし、西田の理解の程度に応じて両書の評価は違ってくるかもしれない。

 今回は、両書の総括的な紹介を諦めて、西田哲学で一番重要な純粋経験ということを、言葉と経験という観点から考えてみたい。

 よく引用される西田の言葉に、「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」、と云う言葉がある。
 この言葉が難解なのは、ここに云われる世界が、デカルトのコギト的な「我」が成立する前の、非人称的な世界を扱っているからである。主客未分の先‐言語的な世界から、自我が現成されてくる一歩手前の世界を問題にしているからにほかならない。しからば、そのような世界を何と云うか。「無」の世界と云うらしいのだが、そこ言葉は余りにも手あかで汚されてしまっているので、「無」の世界と云う表現を一旦取り下げるものとする。
 さて、ここで重ねて問題にしたいのは純粋経験、つまりデカルトによって人間的理性の根源にあると想定されたコギト的「我」の、一歩手前に存在すると云われる西田哲学における非人称的な世界の主体は誰か、と云う問いである。その問われるものを「自己」であるとか「無」であるとか言い換えているけれども、実は西田哲学は十分に応えていないように思われるのである。十分に答えないまま西田は先にすすみすぎたように思う。

 西田は、主客未然の人称的非人称性について追及せぬまま、そのまま「無」と云う場所である「自己」が自己を自己の中に写しだし照らし出すことによって、ここから直観と反省が生まれ、「場」を手掛かりに最終的には主体と歴史的世界と云う二元的な現象界が発生する、と云うように論理を発展させる。ここから、晩年の 西田の歴史的世界へのアンガージュマン、すなわり軍部への協力的姿勢が見出される、と云う訳である。この問題は、ここで置く。

 主客未然の無と云い自己と呼ばれたものは、また経験とも云う。初めに引用した「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」の、「経験」である。

 つまり「経験」とは人称に先立つものであるから、原理的には、その主体は誰であるかとは、原理的には問えないことになる。しかに、人称的に問えないからと言って、彼が何ものかではない、と云う事は結論付けられない。h人称に於いてある誰かは、「無」まで還元される必要ななく、中間的な何ものかが居るのではないのか?

 この問題を上田に倣って「経験と言葉」と云う視角から解いてみる。
 言葉と経験は均しいのであるか、そうでないのであるか?

 西田の純粋経験において、主客未然とは当然ながら、言葉の限界を超えている、絶対無である。こうして、かってヴィトゲンシュタインが云ったような意味での、世界と言葉の等式の関係、言葉の限界が世界の限界に均しいと云う言語観の問題に経ち帰ることになる。

 ここで言葉とは、大きく分ければ、意味を伝えるための道具としての言語と、あらゆる論理や意味作用に先立つ意味文節作用としての言語との二つを区別しておく必要があるだろう。日常言語から学術や論理学に使用される言語は全て前者に含まれることは云うまでもない。意味文節作用とは、先-言語、とでも云うべきものである。
 さて、西田哲学は、言語の両方の定義を重々理解しながら、言語の壁の外側に就いて言及する。つまり言語が奪われて経験的な世界が弾けて、主客未然の世界が出現する、と云うのである。であるから純粋経験とは、言語を越えると云うことになる。

 しかしここに、根本的な矛盾は、言語を越えると云っても、それも「言語問題」だ、と云う事なのである。つまり言語と云うより、意味文節作用に先立つ世界はあるのか、と云う問いに言い換えることが出来る。

 これは結局水掛け論になるので、これ以上の追及は止すことにする。もっと西田を勉強することで、この問いは同時に問われ続けることになるのだろう。

 さて、西田哲学における主客未然の中から立ち現われてくる「自己」とは誰か?と云う最初の問題に戻る。自己とは、同時に無でもあるらしい。しかんもその無とは、絶対無であるらしい。しかしそこまで禅的な徹底的な還元を行わなくても、と云うのが最初に書いた危惧であった。これは、私の独断ではあるが西田に及ぼした禅の悪影響ではないかと思う。西田や上田に叱られそうだが、あえて言いたい。
 
 後期西田哲学が、自己と云う無の場所に自己を自己として写しだすことによってコギト的我と物象的な世界を現出させ、ここに経験的世界誕生の秘密について言及するのだが、このカント的基礎付けは方向が反対ではないかと思う。
 主客未然の世界を出発点として、あらゆる現象的世界、歴史・社会的世界に帰るのではなく、主客未然の世界とは現象的世界の発生論的起源ではなくて、フッサールなどが云う自然的世界なり自然主義的世界を「エポケー」し、得られた到達点としての世界、つまり真実在の世界であるのではないのか。西田は、一方では純粋経験の世界を真実在と云いながら、それなら何ゆえに其処から出立つしなければならないのかが分からないのである。何ゆえ、一旦真実在の世界を見出しておきながら、現象的世界へと下降しなければならないのであるか。

 実はこの問題は昨夜、アウグスティヌスの本を読んでいて思ったのだが、彼の『告白』と云う本には、私とは何ものであるか、と云う問いがあると云う。そしてこの「私」とは、驚くべきことに公共的な「われわれ」が崩壊した時代に特徴的な人称的なあり方だと云うのである。つまり経緯は違うのだが、アウグスティヌスの問う「私」とは、コギト的な「我」なのである。「我」を「こころ」とも云う。しからば「こころ」以前のあり方を何と云うか。この本によれば「魂」と云うのだそうである。

 ここには主客未然と云いながら、尚「我」にこだわる近代人西田の姿がある。主客未然の非人称的な人称的存在とは、「魂」のことだったのである。
 「こころ」と「魂」、私たちはこの両者を等根源的に比較する視座を失ってしまった。

 近代的な意味での我でも我々でもない、人称未然の存在とは、現象的には「語り」であった。「魂」は言語の範疇を越えているので、それに就いて言及することも想像することも出来ない。近代的「我」や「自己」を主客未然の「経験」の中に滅却させ、おのずともの自身が語り始める世界、それが西田哲学における主客未然の純粋経験と呼ばれた世界の主であるらしいのである。

 こうして、魂とは、宗教と云うものの考え方を使わずとも理解可能なものとなった。宗教的世界に就いて言及することは、信仰の問題であるのだから、信じることなしに理解することは不可能である、と云うよく言われる正統的言説は正しい。しかしここで言われているのは、宗教的世界の出来事が、対象性言語なり論理では語りえない、と云うことを意味しているにすぎない。私は傲慢であるのか。加減を知らぬものであるのか。しかし私はあえて問いたい。神は宗教の内側にしか存在しないのであるか、と。宗教と云う壁の外側で神を問うてはならないのであるか、と。