アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジャック・デリダ――現代の気になる思想家 アリアドネ・アーカイブスより

ジャック・デリダ――現代の気になる思想家
2012-05-18 11:25:47
テーマ:文学と思想

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・ 表題のように、気になる思想家ジャック・デリダを「90分でわかる」ことにした。

 例えば脱構築、テクスト論、決定不可能性などの独特な用語を「創作」して論じることの意味は何か。言説が特異な用語の創設を含むことに於いて、何やら最近復活著しい西田の哲学と共通するものがある。

 つまり脱構築とは、真理の絶対性と云うものを仮定し、「知の現前性」を持って真理の保証とする西洋的理性、西欧的知のあり方の前提に向けられた問いなのである。つまりフッサールなどとともに、西洋的な知の体系が、我々の生き生きとした直感からかけ離れたものになっている、と云う認識に於いて、ここには勿論建設的なものがある。

 西欧的な知のあり方を二元論であると見て、それを西欧的な知の前提以前の、主客未然のあり方から批判的に解体すると云う意味で、西田哲学もまた「脱構築」のあり方の一つであったのである。
 
 違いはただ一つ、テクスト(言語)、それが相対的であるにしても、その外部はあり得るのか、と云う問いである。西田が答えたものこそ、言語の外部を積極的に評価し、それを、例えば絶対無、と云う形で評価することだったのである。(それを絶対無とまで言わなければならないのか、これを禅の悪影響であるとする私の独断?を前に書いておいた。)
 そして、このテクストなり言語の外部を「思惟する」あり方を、徹底的に批判することこそ、デリダの使命だったのである。
 ここに於いてデリダと西田は出会い、鋭く異方向にクロスする。

 この書のストラザーンに寄れば、テキスト(言語)の外部を巡って、同じポストモダンと言われながら、ミシェル・フーコーデリダを分かつものなのである。
 周知のように、言語や言説が不可避的に帯びる歪の構造を、世界観としてのエピステーメ―として捉え、言語と権力の関係を鋭く告発したのがフーコーである。
 デリダの批判は、フーコーの指摘は認めるにしても、言語の権威主義的な構造を対象化して見せるフーコーの論理そのものが、西洋に固有の理性的言語を用いているものであり、自己循環的であり、自己矛盾であるとするものである。なるほど鋭い指摘であると云う事ができる。つまり、言語批判に於いて、言語の外側に立ち得る思想や言説などは、また再び、形而上学的な亡霊を裏口から導き入れてしまう、と云うのである。
 西田幾多郎もまた、フーコーと同じように言語なりテクストの外部を考える。西田の場合、フーコーのように自己矛盾的にならないのは、――これは冗談のつもりだが、本人自身が「絶対矛盾的自己同一」(笑!)などと言っていることもあるのであるが、もともと東洋に於いては、「言」ではなく「行」において乗り越えると云う「伝統」が遍在し、既成事実化していたことによる。つまり、これがある面での西田の強みであり、そして反対に、繰り返し何度も私が言う、西田哲学への禅の悪影響なのである。(なにゆえ絶対的矛盾的自己同一と云い絶対無と云うところまで抽象化を徹底しなければならないのか、こう云われては何も言えなくなる、あるいは論理の行き止まりを自ら設定すると云う意味では、これ以上の開かれた対話を拒否するものとも云える、かかる疑問は別の西田を論じたところで既に書いた。)

 デリダの徹底したテクスト内在主義、言語内在主義などは、私は是非徹底してもらいたいものだと思うものだ。ヨーロッパ的理性なるものに対する徹底した反感は、ユダヤ人として受けた差別、しかもフランスの属国としてのアルジェリアを祖国として生を受けたものとしての、アンビバレンスと云うものが潜んでいたであろう。デリダが、あらゆる権威に見せる反抗的姿勢に、私は共感する。しかし、何でも反対の反対万能主義が最終的に、意味不明の世界に蓬着することも明らかだろう。デリダが、何を言おうとしているのか解らない、と人は云う訳である。

 再度問う。テキスト(言語)の外部は存在するか?この問いは、言語なり言説なりが特有の歪の構造を持つという指摘だけでは不十分なのではないのか。歪と観えるものにこそ言語の固有な意味なり形態があるのであって、むしろ言語なりテクストをそのようなものとして批判するあり方の中に、言語の背後に控える形而上学的な実態、つまり絶対的「真実」なり「神」と云うものを既に前提した議論になっているのではなかろうか。事実、ここでは私はデリダを代弁しているのである。

 しかしここからデリダのように、何事も有意味なことは言えない、と云う相対主義や悲観論に陥るのではなく、また、決して誤ってはいないけれども、西田のように、絶対無などと云うそもそも手がかりのない宗教的世界を、明晰であるべき哲学の世界に持ち込むことではなく、もっと無の手前側に於いて有意味的な言説が、言語の内部に於いては勿論、外部に於いても成立するのではなかろうか、そんなことをこの頃は想像しているのである。

 そのヒントは、アウグスティヌスの実存としての愛の概念の誕生に関わり事情にある。
 なにゆえ、ここで「実存としての愛」と断るかと云うと、アウグスティヌスキリスト教理解を愛の概念として捉えることで、アウグスティヌスにおける「近代」の問題を問うことができるようになる。つまりここで云う近代とは、「古代的」近代、と云うことになる。

 近代とは何も西欧にのみ生じた17世紀以降の出来ごとのみではない。共通の理念を戴く共同体的な社会が崩壊した段階に於いて、滅びつつあるる社会が適当な知的・文化的水準にあれば、先駆的な一部の知的エリートたちの間で生じることがある。それが、古代的世界が崩壊しつつあったアウグスティヌスが生きた時代であった、と云いたいのである。
 しかし誤解していただきたくないのは、アウグスティヌスの愛の思想がヒントになると云っても、彼が教理として確立したとされる愛の概念のことではない。愛の概念に辿りつつく、一歩手前の事情の事なのである。彼が苦難の末愛の概念に辿りついたにしても、彼が見失ったものとは何であったのか、古代人の人間として保証する形而上学的な前提とは何であったのか、と云う事がこの場合とても参考になるのである。

 つまり、「こころ」と「魂」と云うことで論じるならば、ある社会が、例えばローマ帝国の崩壊のように、物理的な次元だけでなく文化や文明という世界観的な次元でも巨大な崩壊に直面した場合、個々の人間たちを支えていた基層としての理念も崩壊に瀕し、人間は一挙に無根拠のものとなる。アウグスティヌスのの中に生じた実存的な不安とは、この崩壊感覚のただ中で生じた基底的な共同体社会の文化理念に代えて、それを彼なりの実存として、つまりキリスト教を愛の現前として読みかえることであった。愛の現前性とは、キリストによる救済は最後の審判のような遥かに遠い出来事であるだけでなく、いまここに、愛として現前している、とするものである。

 繰り返し言うが、私が感心し注目しているのは、アウグスティヌスの愛の思想ではない。彼が愛の概念を確立する前に経験した世界の記憶である。記憶である、と書くのは、もしかしたらアウグスティヌスの誕生時には、かかる社会の理念性、形而上学的基層的経験は失われていたかも知れないからである。
 彼が、「近代」的な「我」として自己を確立する以前に、彼の前から姿を消したもの、つまり古代と云う時代に揺曳するあの「魂」のことなのである。私の言わんとする社会を基底に於いて支える理念とは、つまり魂の事なのであった。

 西田の主客未然の世界を、しからばそこの主は誰であるか?と問うことによって、それを絶対無とまで言わずに済むのである。魂と云う人称的世界を越えた人称を語ることに於いて、言語やテクストの外部とまでは言わないけれども、主客未然の根本的な経験の発展態を、魂と名付け、魂と云う概念を用いることで、哲学を宗教的世界の前に屈服させることなく、有意味な言語として語り得るのである。哲学が、宗教の前で憚る必要が無くなるのである。

 魂とは、心霊的な出来ごとではない。それは目には観えないけれども語り得る。例えば文学的な書物などを読んでいると、それが特に散文的な読書と云う世界から離れて、朗唱とでも呼べる世界に入ることがある。とりわけ能楽による歌いと舞において、語るものは誰であり得るのかと云う問いは根源的である。語りが作者や鑑賞者其処に読み込んだ意味や恣意的な解釈を越えて、言葉が言葉自身に於いて語る、と云う世界が成立する。これはオペラにおけるアリアやアンサンブルと云う形式に於いても、語り歌うものがある段階から、歌手を越えた調人格的な何ものかが語る、と云う世界が現出する。シェイクスピア平家物語のような語りに於いても、リアリズム演劇としては不自然とも思える長大な時代背景や状況の語りは、観客に向けられたサービスと云うだけでななく、人間成らざるものへの語りなのである。アリストテレスの『美学』におけるカタルシス論は、心情の浄化と云う個人主義的な理解の仕方がされたけれども、彼が言わんとしているのは、jホーマーやギリシア悲劇における、人間ならざる者の超人格的な語りのことなのである。

 芸術こそ、古代の魂が、退避した、現代の隠された場所なのである。
 芸術の偉大さと意義は、ここにある。

 芸術に就いての学、つまり美学とは、本質的に政治学を含む。美学とは、芸術作品論や芸術法則や規範論ではなく、人間が実在に関わるあり方を論じる最も高貴な部門である。