『雁』のお玉の視線で読む『舞姫』と鷗外
『雁』のお玉の視線で読む『舞姫』と鷗外
NEW!2020-02-13 20:53:21
テーマ:文学と思想
森まゆみさんの鷗外についての評伝を読むまでは、『雁』など上手く作られた作品としてしか評価してこなかった。哀愁のロマンの底に鷗外その人のイロニーが塗りこめられていたにしたところで、滑らかで出来すぎた物語作品においては反ってリアリティを裏切ってくる、としか評価していなかったのである。ところが評伝を読んで、鷗外の秘められた背景のなかに隠滅する鬼火のような性的な存在を予感するに従って、明治初期の、お玉を廻る哀切極まりない世界へと変貌したのである。自分でもここまで自分の読書評が変貌するとは思ってもみなかった。
初期の有名な作品、『舞姫』もまた、鷗外の上手すぎる文体故に、それがリアリティを裏切る結果になっている、と考えていた点では、『雁』の読了感と同じ過ちを犯していたことになる。
『雁』におけるお玉の実在を信じることを通じて、『舞姫』のエリスのリアリティを信じることができるようになった。と云うよりか、お玉の人物像の起源は何処にあるのか、と考えて、樋口一葉を思い出し、さらに若き日の鷗外の愛人エリスの実在に突き当ったのである。
こうした経緯を踏まえて読んだ『舞姫』の世界は、いままでの読後感の何れをも一変するものであった。エリスはただ可憐で哀れなだけではない、そこには近代と云う時代を生きようとして、息の根を止められた無念さと慟哭が深く深く木魂する、不気味でしかも神秘的な作品となっていたのである。
『雁』の再発見、再解釈がなければ『舞姫』のエリスへの追憶もなかったに違いない。若き日の鷗外を追ってに日本まで来たエリスの面影のなかには、無知で可憐と云うよりも、お玉と共通の、乾坤一擲に賭けるとも言うべき気迫が感じられる。かかる行動規範における気迫は、知性が備わった人間でなくてはあり得ないことなのである。鷗外はそのようには描いていないけれども、対自的な意識としてはかかる女性像を終には理解できなかったのではあるまいか。作中の岡田ほど朴訥で鈍感ではなかったにしても!
お玉とエリスとは、近代日本文学が、ついに描き育てることができなかった人間像なのである。この女性像の系譜の連なりのなかに、『山椒大夫』の安寿、『最後の一句』の長女の灰色の像もまた、朧げに、あぶり出し絵のように見出すことになるのかもしれない。