アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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井上靖と京都学派――『しろばんば 後篇』と『あすなろ物語』などを読む アリアドネ・アーカイブスより

井上靖と京都学派――『しろばんば 後篇』と『あすなろ物語』などを読む
2012-05-21 12:47:48
テーマ:文学と思想


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・ たとえば、全集版の『しろばんば 後篇』の見開きはこうである。
 『しろばんば 前篇』を挿画入りの児童図書版で読み、後篇を定本の全集版で読んでみる。後者は六百五十ページを越える二段組みの大冊である。予想に反して、両者の印象私には全く違ったものと感じられた。製本装丁の違いが微妙な影響を与えたのか、それともやはり内容の違いなのか。

 

 

 一読して、おそらくそればその作家の代表作であろう、と云うことは判るものである。『しろばんば 前篇』は読みながら、そう感じた。文章の行間に、それがその作家にとって特殊なものであることがよく解るのである。
 その、特殊なものとは、翻って考えてみれば、井上靖における、詩情とでも云うべきものであった。幼き日の少年時代の物語が、明らかに現在の時点から顧みられた自伝でありながら、自伝や伝記であるようには、対象性を持ったものとしては語られていないのである。子供は環境を自らは選べないと云う意味で、絶対的に受動的な立場にあるが、その絶対的な受容性を帯びた子供の見方が、何ゆえか後年の成人と云う名の他者の眼で描かれるとき、内容を大きく損なうものであることを大人たちは知らない。普通の大人たちが知らないだけでなく、人情に通じていると言われる小説家や心理学者ですら気づくことなく、平然と生涯の語りを語るのである。これは過去が、語るべき対象が、痛切であるかないかとは次元の異なる問題である。これは迫真に迫った描写がなされている、あるいはリアリティに充ちた芸術的彫拓が成されている、と云う問題とも無関係なのである。幼年時代とは、言ってみれば自伝史の中の他者性を帯びた時間なのである。子供の眼差しに潜む他者性を自覚的に描くことは、一流の文学者の場合に於いてもそれほど容易なことではないのである。

 こんなことを執拗に考えたのは、ある本の中で西田哲学の文献の中に、その欄外に京都大学時代の井上が書いた卒論のメモを読んだ時である。その時は判然としなかったが、井上の学生時代はそう言えば西田哲学の全盛期と重なっていた。そして井上もまた、京大の哲学科に属していたのである。一見、井上文学と京都学派の関係は解り難い。京大哲学科当時の恩師は植田壽蔵博士と云う方だそうだが、専門分野としては美学を選んだのだそうである。今後、井上と京都学派ならびに西田哲学との関係は明らかにされるのかも知れず、あるいは論証は困難なのかも知れない。何れにしても、興味ある問題として見守って行くことになるのだろう。

 『しろばんば 前篇』の魅力は、異常な出来事を異常ならざるものとして描く固有の視点である。これは環境を選ぶことが出来ないと云う、子供に固有の絶対的に受け身の立場の表明にほかならない。生涯上の出来事をある種の感慨をもって回顧するとは、あくまで現在の価値観を踏まえた事象である。いわば幼年時代を描きながら、幼年時代と云う人形に託された大人の物語であるにすぎない。こうした、作者の視点が透視画的に中央に陣取った配列に於いては、例えば『しろばんば』冒頭の場面の、しろばんばと呼ばれる微小羽虫の乱舞が、青白く変容する場面がこの世でただ一人の少年だけに見える特異な風景である意味が分からないのである。あるいは、村を離れて小旅行に出る洪作の乗った馬車を追って、段々と話されて行く幸夫少年の表情が歪んで見えるのが、一時の別れの悲しみのためであると誤解してしまうのである。洪作と幸夫の間には社会的な身分の差と云うものがある。洪作は今は土蔵にお婆さんと二人暮らしているが、やがてはこの狭隘の土地を出て羽ばたいていく人種であると云う格差がある。幼年期の絶対的受動性は価値判断を越えて、時の無情さと共同体内部における階級性を、言外に表現しているのである。
 つまり、このような段階を、西田哲学では、主客未分の、価値判断以前の
純粋経験、と云うのである。我々がありのままの過去と思っているものは、意味文節の空間に於いては、何ほどか現在の視点から再構成された価値配列であり、過去そのままではない。過去と云う素材に仮託された現在の表象であるにすぎない。他者性を持った過去をそのものとしては捉えていないのである。他者性を帯びたものとしての過去とは、子供の遊びの空間の中に「子供一般」とでも云える子供たちが去った後に取り残された、特別の子供にのみ見える空間であるのかもしれないないのだ。

 こうした過去や一般的に言って時間の他者性と云うものが、同じシチュエーションと同一の人物同一の道具立てに於いて語られる、後日談、『しろばんば 後篇』や『あすなろ物語』においてはどうなのだろうか。
 『後篇』は、前編に引き続いて、思春期前記とも云える時代を描いている。つまり若き叔母・さき子と主人公洪作との生と死がクロスする神秘的な均衡の時代を経て、最初から予感されていた育ての親のお婆さんの死までを描いている。お婆さんの死とは、そのまま伊豆・湯ヶ島時代の終わりでもあった。かかる一連の首尾一貫とした起承転結の物語としては、読者を飽かせることなく読ませせる物語とはなっているのだが、何がが違うのである。幼年期を固有の内在的視点から描いたように、思春期の揺れ動く心象を内観的に描いたかとなると、微妙に違うのである。
 例えば『後篇』は、村の林野局管理事務所の一家が引越してくる場面から始まるのであるが、一つ上のあき子と云う少女が後篇では重要な役割を与えられている。林野局の官吏とは村では特権階級であり、最初から都会的な雰囲気によって洪作を圧倒する。ここでは、彼女との出会いを通じて思春期の感情のほのめきすら描かれるのであるが、前編との差異は明らかである。
 典型的な場面は、子供たちが野鳥を罠にかける場面である。枯れ枝に重しの石を支えておくと云う幼稚な仕組みであるから、罠にかかった小鳥は大抵圧死してしまう。これを残酷であると感ずる視線は戦後の価値観を無前提に表象しているように見える。あき子と作者の価値観が地続きに繋がって、洪作の感じる負い目や引け目が十分に説得的に描かれないのである。意地悪な見方をすれば、如何にも戦後の教師が示す指導要綱、と云う気がするのである。
 『あすなろ物語』は、表題からしてやや無神経である、と云う気がする。六つの物語に描き分けられた六つの人物像、その大半は女性像が多いのだが、くっきりと描き分けられた描写力は、井上の筆の巧みさの証左とはなりえても、主客未然の過去の他者性を内側から時間の固有性を描く、と云う手法とは異なる。明日は檜になるだらろうと云うイデオロギーもどきの教説を読者が期待していると云う井上の思い違いがある、と思う。異常なこともそうでないことも子供の無力さ非力さ、絶対的受動性において受け止めた『しろばんば 前篇』とは、全てのベクトルがさかしまになっているのである。

 『あすなろ物語』については、小説の書き手としての巧みさゆえの安易さ、と云うものを感じる。小説の書き手として上手いのは上手いのである。しかしこの六つのオムニバス形式による自伝の試みは、例えば展覧会の絵を思わせないだろうか。つまり一個一個の映像が名画のように鮮明で巧みに纏められているのである。大学で美学を学び、新聞記者時代では美術関係に携わったと伝えられる井上の豊富な美的な知識が、ここでは悪影響を及ぼしている、つまり自伝の試みとしては成功しているとは言い難いのである。文学作品としては読ませるのだが、自伝史固有の時間をそれに相応しい精度に於いて描いている、とは言い難いのである。