アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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井上靖 『北の海』――井上靖における自伝文学の意味するもの アリアドネ・アーカイブスより

井上靖 『北の海』――井上靖における自伝文学の意味するもの
2012-05-27 17:18:21
テーマ:文学と思想


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・ 『北の海』は、沼津における浪人時代の半年ほどを描いている。伊上洪作少年は県下の高等学校の受験に失敗し、『夏草冬涛』の仲間たちが東京へ、京都へと去って行った後の、取り残された数カ月間を、受験勉強に熱を入れるわけではなく、中学校を卒業できずに留年した遠山と云う柔道少年と、中学校に顔を出し、先輩風を吹かせて、その日その日を送ると云う、井上氏の鬱屈した日々を描いている。鬱屈した日々をそのまま描いても仕方が無いから、それを一篇のユーモア小説としたところに井上の独自性がある。この小説が『北の海』と名付けられたのは、物語の後半に一週間ほどの金沢体験記が出てくるからである。「北の海」とは内灘の海のことである。
 よく言われるように、井上靖は多作である割には駄作が少ない。『夏草冬涛』にしても本作にしても、素材自体を取り上げれば痛快でも波乱万丈でもなく、かといって思春期の内面の真実やデリカシーを描いたものでもない、通常の凡庸な才能の持ち主であれば、ここから魅力ある小説を紡ぎ出すのは余程困難ではなかったかと思わせるものがある。
 本編でも、浪人生と落第生の二人がラーメン屋やとんかつ屋に行って会食をしたりする小不良ぶりや、その合間に母校の道場で後輩たちと柔道の練習に無為な時間を費やすと云うだけでは、魅力ある小説とはなり難いと、普通は考えるであろう。しかし、後半、金沢の第四高等学校の柔道部に誘われて一週間ほど金沢で生活することになるのだが、そこで出会った友人たちの多彩さが、何とも素晴らしいのである。大したことはないだろうと思いながら読んでも、読み終えると、やはり読んでみて良かったと思わせるものがあるのである。
 金沢時代の友人たちで魅力を感じたのは、個人の好みもあるだろうけれども、私は蓮実と権藤と云う少年が印象に残った。柔道の事は詳しく知らないが、蓮見と云う少年は、洪作少年に勝負と云うことを越えた武闘の世界があると云うことを教えた。難しい試験を突破して入った高等学校の三年間の時間を柔道に打ち込んでも悔いが無いという決意、それが何のためのと云うのではなく、限られた青春の時間を切り取って、全ての時間を使い切っても悔いないと云う清新さ、何の為にとか人生設計の先後関係を考えたら遣って行けない、そんな思いを雑念と切り捨てて、雑念が生じればそれだけ練習に打ち込む、と云う生き方に、今までにない新鮮さを感じる。
 権藤と云う、師範代かマネージャーをしている無表情のリーダーもそうである。部活の休止日もひとり道場に顔を出していると云う噂の持ち主なのだが、誰もその実態を知らない。後輩たちは疑問に感じても聞いてはいけないような気迫をそこから受けとっているようだ。畳を舐めまわし得ているのではないかと冗談にも揶揄された権藤の隠れた一面を、ある日洪作たち少年たちは盗み見するのだが、そこには広い道場の中に一人端坐する少年の姿があるばかりなのであった。座禅を組む少年に対する畏敬は、見るべからざるものを見たと云う、自らを恥じ入らせる感情を少年たちに与える。座禅と云うもものについて詳しく知らないにしても、そこにただならぬものを予感して沈黙すると云う洞察力は備わっていたのである。
 洪作は、金沢での一週間と云う短かくはあったが、道場に集う一群の少年たちとの出会いを通じて、次の進学先の目標を固め、それが同時に多感な沼津時代の終わりでもあった、と云う筋の運びになっている。

 『夏草冬涛』にしても『北の海』にしても、描かれた事実はほぼ井上の自伝的事実を基にしたものであるのは間違いないだろう。しかし実際には、実際の井上少年が経験した鬱屈した心情は濾過され、優れた青春もの、優れたユーモア小説として仕上がっている。確かにこれがあの『しろばんば』で描かれた洪作少年の後日談であることは了解しながらも、同じ自伝小説の繋がりと考えることには抵抗を感じる。つまり、これは巧みな筆さばきで書かれた全く別様の物語であったと思われるのである。

 この後、洪作こと井上少年は念願かなって第四高等学校に入学する事が出来、晴れて柔道部の少年たちとも再会を果たすことになる。そして『夏草冬涛』の藤尾や木崎、そして金枝たちが予言したように、二年間の柔道生活を終えるとやがて本格的に文学と向き合うようになる。勿論、この後も洪作こと井上少年の長い青春時代の紆余曲折は、伝記によると29歳の春まで続くのだが、少なくともその作家としても人格形成の時期としても一番肝心な時期について多弁ではありえず、例えば『夏草冬涛』や『北の海』のような読み物として、あるいは『しろばんば』のように、その時代の少年の眼にだけ見えるような固有性を持って描かれることはなかったのである。

 以上、『しろばんば』から『わが母の記』まで、多彩な井上靖の自伝小説あるいはそれに類するものを読んできたわけであるが、同一の素材から異なった視点、異なった文体によって異なった物語が織り出されるという事例をみたことになる。ここで井上が見せた多彩さは、実は、社会派小説から歴史ものに及ぶ井上文学の多彩さとも同様な関係にある。その多作さ、膨大さも併せてそれが井上文学を一言で要約するのを困難にしている。

 最後に、井上の自伝ものを要約するとこのようになる。
 『しろばんば』は児童文学に分類されても良い幅を持つが、描かれた対象、その視点の固有さは独自のものがある。大人はしばしば自分自身の幼年時代の感性を見失うと云われるが、この本を読みながら、子供時代にはこんな感じ方をしていたのだなと、虚を付かれる様な思いをした。失われた幼年期と云うものについて、如何に詳細に語ろうとも不可能な、小説と云う形式に於いてのみ可能な井上の「詩と真実」と事実と云うものが描かれていてとても感心したのである。しかし幼年時代が一度きりのものであるようにj、このような小説は二度と書かれることはなかった。
 『幼き日のこと』は、大人の安定した視線から描かれた回想録である。『しろばんば』と同じ素材を用いた作品であるために井上における芸術的彫拓と云うものの秘密が多少覗われて興味深い。ここでは人と云うよりも、伊豆の山村の行事と慣習の風物詩、と云ってもよい描かれ方がされている。人よりも自然であり、山紫水明に囲まれた人の営みの風景である。人の生臭さが捨象され、回想特有の郷愁と理想化が働いている。流石に、感傷をを排した叙述の仕方である本書に於いても蔵で暮らしたお祖母さんの死を描いた場面は、やはり感傷的である。
 『姨捨』と『わが母の記』は二十年近くの年月を隔てた「母もの」であるが、個人が味わう内面の荒涼とした風景は結局癒されることはなかったのではないかと思わせる。本人の弁にも関わらず、井上にとって父も母も大きくは変わらなかったではないかと思われる。父とは、自明の父であるよりは再度確認されなければならない対象であった。そこに井上文学における特有の抒情性の秘密がある。母も、受胎と分娩という形式で自らの身を分けたものであるにもかかわらず、再確認されなければならなかった対象であったことに於いて変わりはなかったのではなかろうか。人と話す場合に自然に出てくる「故郷」という語感や感覚は最後まで井上は身に馴染まなかったのではなかろうか。
 『あすなろ物語』は、オムニバス形式の自伝史である。生涯に出会ったある特定の特異な人物一人に焦点をあげて、自らの詩と真実を語ったものとは一応云えるだろう。しかし一読後受ける印象は、多彩にして巧みな展覧会の絵と云う印象意外のものではない。短編小説としての巧みさが、自伝に固有のリアリティとは異なった作品に仕上げている。戦後史の精神的風景を描いたものとは言えても、自伝的な真実を明らかにするものとはいえない。
 井上の小説家としての上手さは、自伝的な『夏草冬涛』においても『北の海』に於いても、自伝的真実とは次元の異なったユーモア小説であることは既に述べた。ここに於いても、自伝的実感から遠いものにしているのは、井上の上手さなのである。
 井上文学が生前から「中間小説」と云う分野に分類されていたことは有名である。大衆文学と純文学との間と云う意味らしいが、それは井上が知識人を描かなかったとかアクチャルな現実と対峙しなかったと云う意味よりも、小説固有の見え方をする小説を『しろばんば』以降は書かなかった、と云う意味であるように思うのである。
 『わが母の記』はエッセーであり、『姨捨』は心境小説あるいは私小説である。『幼き日のこと』は現在には影響を与えない過去を語る風物詩であり、『あすなろ物語』はスピリットの利いた時間の切断面に現れる名画的風景、ヨーロッパ的意味での短編小説集、である。『夏草冬涛』や『北の海』は既に述べたように、読み物であり、何れも小説以外の形式に書き変えても互換性がある。しかし『しろばんば』は、幼年期の固有さと云うものに加えて小説と云う形式以外では表現不可能なものを表現している。かかる意味で『しろばんば』は児童文学にして純文学でもあり得ると云う不可思議の王冠を井上文学に与えているのである。