アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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鷗外の造られた青春小説『青年』

鷗外の造られた青春小説『青年』
NEW!2020-02-14 22:32:10
テーマ:文学と思想

 この青春小説を今日の読者が読むとすればまず第一に躓くのは、主人公に対する作者の至れり尽くせりの自己賛美に他ならない。美男子で頭が好くて教養がある。しかも地方の名家の出であって、莫大な資産故に今後も生活のッ苦労はない、と云う設定である。
 田舎出の青年と云う設定であるから、純朴なのはそうなのだが、中央の大学などに行かなくても独学で相当の水準まで達している。何をやらせても、それなりにできる能力の持ち主なのだろう。だから最初こそ東京弁、あるいは山の手言葉、標準語の使用は拙いが、そのうち本人も周囲も気にならないほどになっている。と云うのも彼の方言が一度としてからかわれたという記述がないからである。誰もがこの青年に一目置いていて、粗末に扱われたというためしがない。
 その上にこの青年は女性にもてる。下宿の隣に住む富豪の娘のお雪さん、互いに仄かな行為を抱くのだが、青年は自制ゆえに一線を越えることは夢考えてはいない。反って青年の優柔不断に焦らされてお雪さんの方から、淡白でありながらそれゆえにこそ濃厚な、相反するエロティスムを醸しだしてみせるのだが、青年は決して応じようとしない。理由は彼の考える恋愛観に一致しないからである。この系譜の女性像としては、補完的に出てくる、芸者の「おちゃら」、箱根湯本の宿の美人娘などにも共通するが、好意を抱かさせるだけで、青年は決して一線を踏み越えようとはしないのである。
 こう書くと、この青年、如何にも純で極端にナイーブなのか、あるいはカントのように厳格な道徳律に生きる頭でっかちの精神の持ち主かと思いきや、謎の未亡人坂井夫人の誘いにはあっけなく乗ってしまう。それも色香に誑かされた、未成年の性的な逆上や熱情と思いきや、この青年、この玄人女の対応においても冷静であって、夫人の謎の瞳の奥にあるものを知りたいと云う、探検家の面持ちなのである。だから、箱根まで愛のコケットリーの手段に乗せられて手繰り寄せられたにも関わらず、最後はあっさりと縁を切ってしまう。あっけない幕切れである。と云うよりも読者としては肩透かしを食らった気分である。
 また、文学青年と云う設定の青年が持っている文学観が明治期の田舎出の青年にしては途方もないものである。この青年、フランス語が堪能で、バルザックからフロベールエミール・ゾラまでは良いとしても、ユイスマンスなどに特別の関心を抱いている。一体に、この時代に、フランス19世紀文学の王道的位置にある長編小説群を読みこなした青年がどれほどいたろうか。フランス流の自然主義すら原典に基づいて理解したかどうかも不明瞭なところに、この青年は自然主義が行き詰まって神秘主義象徴主義へと高踏的に屈折していく、後期自然主義ユイスマンスの文学すら自在に読みこなしているほどなのである。誓ってもいいが、わが国のフランス文学の一般的な脈絡の中にユイスマンスの文学が常態として、普通に語られたことなどないのである。青年は自らの教養の傾向が持つ高みを誇らないばかりか特別のことともみなしていない。まさに完全無欠なのである。
 こういう完全無欠の青年が辿る、友情と女性類型の遍歴がこの青春小説?のテーマなのであるが、小説の出来不出来以前にこれでは一般読者の共感を得るのは難しい。鷗外は何を勘違いしたのであろうか。
 この小説に意味があるとするならば、封建的価値観や倫理道徳の範型のなかに生きざるを得なかった鷗外の、もし過程としてこういう生き方ができたらよかっただろう、と云う願望を描いたものだと考えれば納得できる。つまり人並み外れた才能を持ちながら、顧慮と配慮と遠慮が余りにも度が過ぎて、不自然に、ジグザグ型に生きざるを得なかった鷗外の青春挽歌、自分の来し方を顧みて裏返してみたらこうでもあったろうか、と云う慙愧の、痛切極まりない夢なのである。
 もちろんこの小説、それなりに読ませるけれども、青春小説としては失敗である、と思う。