アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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井上靖とユングの元型心理学 アリアドネ・アーカイブスより

井上靖ユングの元型心理学
2012-06-10 16:35:52
テーマ:精神病理と現象学

・ 人間の無意識的世界の根底には、共通する神話的物語のようなものが存在すると考えられ、ユングはこれを集合的無意識、あるいは元型とよんでいるようである。フロイドが神経症やヒステリー患者に認めたのも「元型」であると考えられるし、シェイクスピアジョイスが『ハムレット』や『ユリシーズ』において人間ドラマの究極の関係性としてオディップス神話を読みこんだのも、ユング心理学に先立つ元型心理学の試みと云うこともできる。
 今回井上靖の『わが母の記』を読みながら感じたのは、呆けや認知症と云っても様々である、と云うことである。人間の認知の力のアクティビティとしての知性や情感と云うものが器質的に減退する事態もあるだろう。自他の区別がつかず、外界や対象、他人の認知が出来ないように、やがては自分自身も解らなくなる、老人的痴呆の一般的な理解の仕方である。しかし外見はそのように見えても、老耄の内部に入ってみたらどう云う世界が見えてくるのだろうか。老耄の中身は曖昧模糊の論理矛盾の支離滅裂の世界などと云うことでは済まされない固有の世界性があるのではないのか。曖昧模糊や支離滅裂の論理矛盾がその通りであったにしても、それはあくまで言語の原初的意味文節性を前提にした上での、意味的世界であるのではないのか。なぜなら見ると云う事が既に意味文節作用としての言語と云うものを前提条件としているからである。老耄の内部が言語的世界が成立する手前の、あるいは言語的世界が消滅した後の世界の出来事であるとしたならば、それは到底言語でもって語ることはおろか、単に想像することも、思惟することも不可能であるような、一種の存在論的ビックバンのような事態について語ると云った、矛盾した面があるのではなかろうか。
 現象界としての人間関係があり、その背後に神話的原型性を想定する場合に、元型心理学とは、ユングの場合、言語的世界の概念であったのだろうか、それとも先-言語的世界の事象として構想していたのだろうか。どうもこの辺がユング心理学の継承者の間では、単なる具体と抽象の無害なヨーロッパ社会固有の、古典的な二元論の世界と混同して語れれているきらいが無いとは言えない。
 さて、『わが母の記』の母親は、老耄と老衰の果てに記憶だけではなくあらゆる認知作用を失っていく過程が描かれる。人間の関係性、人と人とを繋ぐの関係性の中では最も結びつきの強いのが母と子の関係と普通は考えられていることから、夜間懐中電灯を持って部屋から部屋へ探し回る母親の行動を推測して、子供たちは子を探す母なのか、それとも子に退化した幼心が母を恋求めているのか、何れであるかと議論する。そしてその何れでもあり何れでもないよう、そのように問うこと自身が空しくなるようなより根源的な事象に気づくようになる。

”特定の子供ではなくて、何となく「子供(一般)」を探しているんじゃないですか、母猫が子猫を探すように”(p154 カッコ内筆者注記)

 「子供一般」とは、何げなく読み過ごすことのできない、怖ろしい言葉だと思う。

 老耄と老衰による人格の破壊が事物の、あるいは人格の個別的固有性を喪失させ、削ぎ落されて最終的に残った芯か核のようなもの、それがユング心理学の根源から立ち昇ってくる元型性と云うことの本当の意味ではないのか。
 もしそうだとするならば、それは人間が消滅した後の世界を意味する、恐るべき世界の風景なのである。

 元型性心理学とは、個別的人間ドラマに普遍性を与えるべく見出された究極の原型概念なのではなく、もしかしたら言語的な意味文節の世界が崩壊した後に生じる、精神病理的な現象のことを意味するのではないのか。

 井上の素晴らしいところは、かかる世界の出現にたじろぐことなく、また安易な出来合いの学説や流布した言説に寄りかかって「説明」することなく、ありのままに、わからないままに記述している点である。

 死の前の年に井上は郷里の伊豆で母親の誕生日を計画する。母親はどうやらそれが自分のための集まりだと云う事はどうやら理解しているらしいのだが、喜びを表すことはない。あるいはこう言い換えるべきであろう。知的理解と実感とを結ぶ関係が失われてしまっているのである、と。

「”どうしたの、おばあちゃん、おばあちゃんのお祝いではないの”
 志賀子が言うと、
”わたしの? そう、わたしのお祝い?”
 母は云った。しかし、母は自分が祝われていることが解っていないわけではなかった。確かに自分のために皆が集まり、おめでとう、おめでとうと言ってくれている、それは判っている。しかし、それを額面通りに受けとって悦んでいいかどうか、その点が自分には納得ゆかない、そういったところが、母にはあるようであった」(p173)

 つまり知的な認知能力もある程度は残っている。感情も能力そのものとしては完全に破壊されているわけではない。人間の認識能力はかなり堅牢で後期まで生存が認められている。個々の認知機能が不全に陥ったのではなく、知的理解と情感や実感を繋ぐ全体の同等性が失われているのである。

 ユングの元型心理学における元型の「原型」性とは、学説なり有意味なアクティブな概念なのではなく、人間の統合性が失われたときに出現する、最後の束止帯、――木製樽を横側から水圧に抵抗して締めつけている拘束帯――、のようなものではないのだろうか、人間の統合性がバラケようとする将に最後のその時に人格を越えて発動する抵抗、それはもはや神話的能力としか呼びようが無い、自浄的自己復元作用としての人間の自然性の痕跡のようなものではなかろうか・・・・・。