アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

小此木啓吾/河合隼雄 『fフロイトとユング』――たとえば木村敏の現存在分析の立場から アリアドネ・アーカイブスより

小此木啓吾河合隼雄 『fフロイトユング』――たとえば木村敏の現存在分析の立場から
2012-06-12 20:34:20
テーマ:精神病理と現象学

http://ec2.images-amazon.com/images/I/51qYYgVTOiL._SL500_AA300_.jpg

 少し古い本だが、20世紀の精神分析をおさらいするのには良いかもしれない。文体も通常の記述体ではなく、小此木啓吾河合隼雄の対談形式である。河合が二歳ほど年長であることから、小此木は自らのフロイディズムの足元を確認しながら、ユンギャンである河合にお尋ねする、と云う形式をとっている。

 興味を感じたのは、例の「元型」理論を、日本を代表する二人の精神分析家が如何様に考えていたか、と云うことである。この問題は、後で書く。
 いま一つは、古沢平作と小此木たち、師弟の関係の厳しさである。古沢は我が国における臨床的精神分析の基礎を造った先駆的存在として知られている。単なるフロイトの紹介者ではなく、オディップス・コンプレックスの向こうを張った東洋版・阿闍世コンプレックスの提唱で有名である。小此木たち第二次のフロイディアンたちは、余りにも日本化された古沢のフロイト理解に対して反旗を翻し、一時は相当師弟の間に厳しいものがあったと云うのである。小此木によれば、この純学理的追及が古沢の寿命を縮めたとも云う。その激しさは、晩年古沢がもう一度フロイトの基本資料を検討し直したことにも現れていると云う。ことの是非はおくとして、それにしても偉大なる師弟関係とは言ったものである。教授会の学位序列の順番待ちに汲々とする我が国のアカデミスムの現状との違いゆえに、まるで外国の話を聞くような思いである。それだけ我が国の黎明期における精神分析に関わった人材は卓越していた、と云うべきだろう。

 さて、偉大なる二人のフロイドとユングの孫か曾孫に当たる世代の、我が国を代表する二人が、例の「元型」を如何に考えていたか、である。大いに興味がそそられるところではあるが、結果は「がっかり」と言わざるを得ない。それかきちんとした学術論文を読んでいない私の方が悪いのかもしれないが。

「河合:これがなかなか説明がむずかしくて困るのです。だいたいユング自身も混乱しているといっていいんじゃないですか。私の受け止めている元型というのはわりあい単純であって、元型そのものは分からないんだということです。元型そのものは意識されることはなくて、人間は元型的なイメージをいろいろと意識する。ところが、その元型的なイメージをいろいろと取り上げていくと、それらの背後に一つの型を想定していいんじゃないだろうかと思うんです。たとえば、父親の元型と云うものがあるとして、われわれはそれを見ることはないにしても、父親の元型のイメージを私の父に見たり、ユングに見たり、あるいは師匠に観たりするということはある。ところが、私がその師匠に恐れを感じたり、父親に恐れを感じたりする。その元みたいなもの、共通因子というのはどうしても予想される。それに元型という名前がつけられていると私は思う訳です」

「小此木:フロイトは一九一六、七年の『精神分析入門』の中で、原空想、ウール・ファンタジーという言葉を使っているのですが、これはユングとかなり深い関係にあるんじゃやないかと思うんです。というのは、最初、フロイトは患者さんが回想するいろいろな性的な体験というものが事実の記憶だと思ったのですが、一九〇〇年ころには、これは半分は患者の空想だ、というふうに変わってきた。そこでいわば、性欲動論が出てくるのですが、さらに進むと、どの患者も共通して、ある空想の類型性を持っているということを問題にしたのです。そういう意味でいうと、エディプス・コンプレックスというのは人間に遍在している一種の共有化された幻想だ、だからそれは、個体発生的なものというよりはもっと系統発生的なもので、原空想、ウール・ファンタジーというのだ、とフロイトも言葉でいっています。こういう考えをフロイトがいうようになったのは、一つには、さっき申し上げたユングからの取り込みがあったんじゃないかと思うんです」
 
 ユング心理学の中心である「元型」概念を、むしろ小此木の方がより説得的に語っているというのが印象的である。
 河合がここで言っていることは、ユング心理学における元型が、実体的に語られたりイメージ的に語られたり、ユング自身にも混乱がある、という事だけである。なぜ実体論が駄目でイメージ把握が良いのか、河合は語ってはいない。実体論が現代で流行らないという以上の意味を認めることはできないように思われる。また、元型の概念をここまで拡大して一般化すると、当たり前すぎて何も云わないのに等しい。読者としては肩透かしを喰らった感じである。
 論理が小此木の方が精緻になるのは、小此木は自分のフロイディアンとしての足元の論点整理をしながら、あくまで年上の河合に伺うという立場であるのに対して、河合の場合はインタヴュアーである小此木の軌道に乗せられたまま尋ねられて応えるという、一方的に受動的な立場に置かれている互いの位置関係の所為かも知れない。それにしてもフロイディアンの小此木の方が「元型」理解に於いて遥かに説得的である、と云うのは皮肉である。

 小此木の発言で注目しておいて良いのは、患者の性的な体験告白が事実ではなく、半分ほどは空想である、というフロイトの報告である。小此木は書いていないけれども、患者は嘘を言っているのだろうか。フロイト流のセラピーの経過を見て行くと「嘘」がどの患者にも共通する類型性を持っている、という事実にフロイトはある段階で気づくようになるという、そうなるとそれは「嘘」とはもはや言えなくなるのではないか。その「嘘」こそ、共有化された幻想、ウール・ファンタジーなのではないか、と小此木はフロイディズムの立場からユング原型心理学を補強し、精神分析と云う同志的立場から補注を加えているわけである。

 しかし「嘘」を「幻想」と名付けて良いのであろうか。それを「嘘」と名付けるにせよ「幻想」なり「ファンタジー」と名付けるにせよ、それらは言語の手前の意味文節性を前提として成立する世界であることに注目しよう。既に私が展開してきた元型論は、元型とは意味文節作用の向こう側の、先‐言語的な世界経験、なのであった。

 元型とは、通常の心理的抑圧とその背後の無意識の世界といった日常的な世界の出来事ではなく二元論的な説明原理を越えて、決して日常的世界には現れない、恐るべき精神病理学的な世界の事象なのである。それは先‐言語的な世界であるために、語ることも知ることも感じることもできない、なぜなら西田哲学流に言えば、対象認知的な認識の枠組みで捉えることに馴染まない性質を持った世界であるからだ。
 統合失調症の世界で現れる自我の分裂とは、人格の崩壊あるいは人称的世界の圧力比の基で生じるある種の気化現象に似ている。内面と外界が入り混じり世界が混乱するのではなくて(先‐言語的世界に於いては混乱するとかしないとかは言えないから)、知的認知も感情もそれ自体としては致命的なダメージは受けていないにも関わらず、それぞれの認知の諸機能が別々に独立して機能するために、一面では極めて正確でありながら、ちっともレアリティが感じられないという世界が出現するのである。つまり痴呆症に於けるある面では正常、ある面では混乱が認められるという所謂「まだら呆け」の事例報告が参考になるだろう。
 このようにして出現する世界を単に「幻想」であるとか「異常」であるとかで済ませて良いのだろうか。むしろかかる事態を異常だと考える見方こそある種の独断、「普通である」と胸を張る世人の「幻想」性を秘めており、異常と考えられ、患者の「幻想」としか評価され無かった世界こそ却ってありのままの世界ではなかったのだろうか。ここに言う「ありのまま」性とは、人間以前の世界のことを意味する。「ありのまま」性とは先‐経験的な構造に於いて言いうる。

 ここから言えるのは精神分析における現存在分析の立場は、「狂」なり「異常」とは健常者の立場から見た、「健全」な世界が単に破壊されたものだとは考えいないのである。むしろ日常的な時間とは危うい「狂」的な時間の均衡の上に成立している、奇跡的とも云える事象なのである。
 日常性なり日常的な時間とは出発点として無前提に無条件的に与えられているわけではない。人間がそこに於いてこそ人間であり得るという意味での、一種の共同主観性と云う名の共同幻想が生んだ、祖先が育み後続世代に伝えた価値ある遺産なのである。

補注: カント哲学の立場を戦前では「先験主義」と訳されていた。私が1960年代に読んだ翻訳本でもこのように訳されていたと記憶する。それが戦後現象学の興隆に伴い、「先験的」は「超越論的」と訳される方が相応しいということになったらしい。経験に先立つ先後関係よりも、認識論的な地平の違いが強調されたためであろう。
 しかしこの世の世界経験としての事象を、(意識ではなく)言語を中心に於いて言語の先後関係で考える場合、カントを言語哲学として考える場合は、あるいは戦前の「先験主義」と云う旧訳の方が相応しく感じられると思うが、如何であろうか。「超越論的」と云うのでは、如何にもおどろおどろしい中世の形而上学じみて感じられるからである。