アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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現代フランス文学におけるデカダンスの諸相――サガン、デュラス、ユルスナ―ルの場合 アリアドネ・アーカイブスより

現代フランス文学におけるデカダンスの諸相――サガン、デュラス、ユルスナ―ルの場合
2012-08-28 15:36:52
テーマ:文学と思想

 

フランソワーズ・サガン(Fran?oise Sagan、1935年6月21日 - 2004年9月24日)

 


マルグリット・ユルスナール
(Marguerite Yourcenar, 1903年6月8日 - 1987年12月17日)↓ 

    

マルグリット・デュラス
(Marguerite Duras, 1914年4月4日 - 1996年3月3日)


 タイトルが「現代フランス文学におけるデカダンスの諸相」などとハッタリめいていて壮大な割には、なぜこの三人の作家を選んだのか。この三人だけで表記のテーマを過不足なく論じ切れるのいかという点については、大目に見て欲しい。フランス文学の専門家からすればもっと最適な人選、もっと浩瀚な配置もあり得るだろうけれども、目下のところ、日本で知名度があって、殆どの著作を日本語で読めると云うのはこの三人の作家を於いてないからである。それからもう一つの事情は、必ずしも熱心な読者ではなかったかもしれないけれども、若いころから読んで折節に決定的な影響を受けた、という個人的な事情もある。

さて、デカダンスはこの三人の作家にとってどのように描かれただろうか。あるいは作家のモチーフをデカダンスはどのように基底に於いて規定し続けたのだろうか。作家と近代的なデカダンスとの関係を四つに分類してみる。

(1) 対象的世界がデカダンスである:作者の視線もデカダンスである。 
(2) 同上                : 作者の視線はデカダンスではない。
(3) 対象的世界はデカダンスでない: 作者の視線はデカダンスである。
(4) 同上                : 作者の視線はデカダンスではない。

 ここに(4)はデカダンスの問題からは除外されるべきかもしれないが、ここにはデカダンス以前の世界、デカダンスとは異なった文化圏に属する概念、反デカダンス――というものがあれば――など、様々なものが分類されてくると思うので、一応分類上の項目としては残しておく。

 サガンの『悲しみよこんにちは』は、プレイボーイの父親とそれを嫉視する娘の目を通して、父親と愛人関係にある教養豊かな夫人が死に追い込まれて行く話である。死んだ夫人は生涯の最後に謎を残す。夫人の死が自殺ではなかったかもしれないと云う可能性である。しかし主人公を含む頽廃した人々は、あたかも夫人の死がなかったかのように今までの平凡な日常を繰り返し、ちょとっばかりの冒険を求めてアヴァンチュールに昂ずる日々は続く・・・。
 つまり懲りない非道徳の面々に道徳的反省の色彩はない。

 さて、この小説は上の分類ではどこに該当するだろうか。
 私の判定は、(2)若しくは(4)である。描かれたフランスの上流階級の恋のアヴァンチュール劇は頽廃「的」だが、作者の眼差しの透明度はいささかも濁ってはいない。道徳的な反省の色が見えないのは、世俗的な慣習や道徳観を超えたところに、作者サガンの倫理観はあるからである。
 この世界に描かれた事どもを、退廃的というよりは、子供じみた他愛のない恋の遊戯とみれば、(4)になる。

 サガンの描くフランスの中産階級の風景は、ソルボンヌの学生街を舞台に描いた、中年夫婦と女子学生の心の逡巡を描いた『ある微笑』においても、その日暮らしの作家や演劇界の泡沫の日々を描いた『一年の後』においても変わらない。イングリット・バーグマンアンソニー・パーキンスで映画化された『ブラームスはお好き』に至っては純情の度合いは最高度である。サガンが言おうとしているのは、たまたま純情な人物を描いたと云うことではなくて、恋の結晶作用は人をして必然的に純情にすると云う、古来よりの伝説を踏襲しているにすぎない。

 サガンの小説は、実存主義的なアンニュイな雰囲気を描いていて、デカダンスの趣はあるものの、作者の眼差しが持つ透明度の深さはどの作品においても際立っている。描かれた対象的世界の価値観に左右されない鮮明度を持つことは、作家としてのサガンの矜持でもあったかのようである。


 マルグリット・デュラスからは『モデラート・カンタービレ』を選びたい。とあるフランス南西部のガロンヌ川のほとりの小さな町、波止場に面した古びたカフェで白昼起きた、殺人劇、――愛人関係にある中年の男女が、女の首を絞めて殺したと云う、いっけん痴情沙汰に似た事件なのだが、それを目撃した行きずりのまた別の二人の男女は、そこに満たされない自分たちの未来を思い描く、という何とも陰気なお話なのである。

 描かれた対象的世界は頽廃的だろうか。男女のもつれから男が女を殺す、よく目にする新聞の三面記事でしかない。そのレベルでは特に頽廃的という事は出来ない。しかし女には殺してほしいほどの切実な想いがあって、男は身の破滅を覚悟で実践する、とすれば、これは理解不能の背徳性を帯びる。背徳性を超えて世俗性を遠く越えた二人の価値観は、宗教性すら帯びて行く、と言っても過言ではない。最も下品(げぼん)の痴情沙汰から宗教的な殉教的行為まで様々の人間的行為の元型を同時にダブらせるデュラスの「透明性の美学」は流石である。宗教的な行為が同時に人間的な猥雑さと無縁ではないことをデュラスは見事に描ききっている。

 さて、問題なのはこの痴情事件をよそ事に見聞した二人の男女の立ち姿なのである。男は事件の真相を知っていると云い巧みに女を誘う。上流生活の倦怠に飽き飽きしている女は自分自身が昔から自己破滅の願望を隠しもって来たことを自覚する。そして二人に決定的な日が訪れる。ただし、二度目は茶番劇でしかないと云う、体験の苦さとともに。

 さて、この作品はデカダンスの分類のどの項目に一致するだろうか。
 私の判定は、(1)である。

 『モデラート・カンタービレ』の世界の怖ろしさは、劇中劇である愛の惨劇の原因を推測する二人が次第に抜き差しならぬ関係になり、劇中劇の人物と自分たちの関係を混同し、現実と虚構を変質させていく生き方にある。
 つまり、フィクションと現実との間の混同は、やがて二人の人格をむしばみ、アイデンティティ――つまり彼が彼自身である理由を崩壊させていく。二人はあの劇中劇の人物である様でもあり、現実の自分たちである様でもあり、誰でもない様でもあり誰でもであり得る、つまり個性を超えた端的な、元型的な男と女に還元されるのである。
 女が死ぬ間際の叫び声がなぜオオカミの遠吠えのように獣じみているのか、その理由は哺乳類種としてのオスとメスが存在の前面に迫り出してきているからなのである。文学史上最もおぞましい風景が描かれていると考えなければならない。人格の崩壊は、通常精神病理学的には、精神分裂病の発病の過程で生じる。自他の区別が失われ、自分と他人の区別がつかなくなる。他者の声が自分の身体から聞こえてき、自分の情報が他者に筒抜けになったとの感情を抱くようになる。小説ではカフェで密かに逢引きを重ねる二人を取り巻く町の人々の視線でかかる病的な境位が代表される。自他の情報が筒抜けなのではなく、自我が崩壊し他者との間を区画する界壁が解体し固有な自己感を喪失している状態であるからである。この段階から現実と呼ばれる場所は、現実的な弾力性を失い五感による知覚による統覚を失う。その結果、狂気の世界への道が開かれるのである。

 かかるデュラスのデカダンスのおぞましさは何処に淵源するのだろうか。『ラマン』に描かれたインドシナに於ける経験、彼女はそこにおける家族の風景を「サディズムの家」と名付けたが、人間としての扱いを受けてこなかつた彼女の前半生も関係していよう。その経験は、ちょっと人には伝え難い絶望観が付着していた。彼女は『二十四時間の情事』と『かくも長き不在』において絶対的な個の断絶、経験の伝え難さを描いた。経験の伝え難い孤独な閉塞感の基で如何にして人間性が破壊されて行くのかを彼女は後に学んだ。そうした一連の地獄の体験の日々を、のちのち後日談として捉え返すようになった時、彼女は初めて自分が当然であるとして自明視してきた現実と呼ばれたものが、実は地獄に他ならなかったことを初めて理解したのである。
 作家マルグリット・デュラスの総括的な位置に『ラマン』はある。彼女は老年になってようやく日も暮れかかった頃、思い出の玉手箱から忘れていた思い出の一齣を取り出した。過去が実際にそうであったと云う意味では必ずしもなく、現在進行形であるデュラス晩年のスキャンダル――デュラスファンの青年との愛の無償性の経験、その進行するドラマ性の中で、過去は鮮やかに形を変容して行った。こうしてデュラスは初めて愛の作家と呼ぶに相応しいあり方を見出したのである。
 この場合のデュラスは、(2)に該当する。

 マルグリット・ユルスナ―ルは『ハドリアヌスの回想』・『とどめの一撃』・『黒の過程』で描いた、歴史的時代の転換期における雄渾な人間像を描いた現代作家である。女流文学という名から連想されがちな繊細さや内面性とは無縁なことから、ちょっと我が国の野上弥生子を思わせるところもある。
 さて、代表作『ハドリアヌスの回想』であるが、彼の後継者になるマルクス・アウレリウス宛てに書かれた書簡集という体裁を取った、帝の美青年に対する想い、彼の若すぎた死に手向けられた鎮魂歌である。
 この小説の特色は、近代の小説という形式の固有性を逆手にとって、近代の価値観に染まらない王者の人間性を何処まで描き得るかという実験であったかに想像する。不慮の死で亡くなった青年を思う皇帝の想いは彼に致命的な打撃を与えるが、しかし考えてみれば最も皇帝を敬い敬愛した青年のハドリアヌスと、滅びつつあるラテン的世界への、死を賭した壮麗な殉死のごときものではなかったのだろうか。キリスト教的な価値観、命とは何ものにも変え難いと説くキリスト教倫理とは異なった、命がかくも軽くありえた時代への、つまりフロベールの云う神なき時代に生きる王者の矜持を描いた壮麗な賛歌ではなかっただろうか。

 ユルスナ―ルは、他にも『黒の過程』では、暗黒の時代とされたキリスト教的世界の、いまだ朧げにすら形を現わさない暗黒の黎明に生きる人間群像を描いている。『とどめの一撃』においては大戦末期の、敵の姿すら鮮明には見出し得ぬ前線のある村のある館の過去と現在を描いて戦争の無残さに迫っている。ユルスナ―ルが問題にしたのは、直截には描かれていないが西洋文明の命運であり、忍び寄るキリスト教精神とゲルマン性が歴史的に奇怪に習合する過程で生じた「黒の過程」、つまり悪との対決であったように思う。

 さて、ユルスナ―ルはどの項目に該当するだろうか。(2)だsろうか。それとも非ヨーロッパ的価値観の可能性を描こうとしたと云う意味で、(4)がより相応しいのだろうか。