アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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日本近代文学に描かれたデカダンスの諸相(下)――耽美と唯美主義――谷崎・川端・鏡花・三島そして漱石 アリアドネ・アーカイブスより

日本近代文学に描かれたデカダンスの諸相(下)――耽美と唯美主義――谷崎・川端・鏡花・三島そして漱
2012-08-29 00:47:11
テーマ:文学と思想

 


三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、
1925年(大正14年)1月14日 - 1970年(昭和45年)11月25日)
 
 三島由紀夫は、彼の作家的成功の後に根本的なディレンマが来た。彼が虚妄であると観じた戦後社会で一定の評価を得るとともに、戦時下の体験が意味変容した。彼は目に見えるものの世界の王者であるだけではなく、目に見えない不可視の世界での王者であることをも望んだ。ここに霊界と顕界の二元的構造と云う、彼流の独自の形而上学が成立した。

 『英霊の声』や『憂国』の特徴は、これらの一連の神がかり的な作品群が何れも、戦後間もないころの戦時の記憶が未だ生々しい時期でもなく、国民的命運の選択を問うた60年ぽ安保闘争の時期でもなく、それに続く高度成長期に於いてでもなく、豊かさが達成された昭和の末期の国民の満足度が最も高まったと云われる、60年代の終わりに出現したことである。つまり三島は戦後日本の成功と対抗すべく冥界の王者たるべき行動を開始したのである。

 しかし結果的に言うと、彼は両界の王者たりえただろうか。
 豊饒の海』は「春の雪」「奔馬」と輪廻転生の三島独自の形而上学を具現した物語であるとともに、かかる元型的美学が繰り返されるときとんでもない二番煎じとして終わる苦味の美学という側面も持っている。物語の終わりが持つ苦味というか、繰り返し転生し、輪廻を繰り返すごとに堕落して行くと云う、三島の輪廻観の表明は、なぜかしら『豊饒の海』が、未だ書かれざる未完の書である、と云う印象を与える。

 三島が生涯の終わりに経験することになる皮肉な二番煎じ劇の苦き味わいは何処に淵源するのだろうか。三島のトラウマは何か戦時中にあったかのように彼は仮構しているが、実は高度成長期の終わりごろに特殊な経験に晒されたのではなかったか。

 それはひとつには、永遠には若くありえないと云う焦燥感であり、その実戦後思潮の先頭を一貫して走って来たジャーナリズムの寵児であったはずの彼に、60年代の学園紛争は奇妙な影を投げかけた。つまり銀色のジュラルミンの盾に果敢に突っ込んではヘルメットをたたき割られて奮闘する青年たちの群像が、ある時期から戦時中のある風景と等価なものとして映じたのではなかったか。

 戦争は、まるで魔王の渇きのように、若者たちの血を欲した。同様に平和な時代に於いてこそ、血は流されつつある。東京で、羽田で、三里塚で、そしてベトナムで。戦時下と同じような、立ち遅れの意識が三島の中に生じた。60年代の現実と戦時の記憶が三島の中でダブって重なった。

 こうして60年代の学生たちの政治的挫折の時期に重なるように、『憂国』と『英霊の声』の世界が開かれることになる。三島が東大全共闘に呼ばれて討論をしに出掛けたのもおっちょこちょいの理由のみではなかった。かれは彼の物語的世界が描いた虚像が将に現実のうつし身として存在し始めている事態を理解した。彼は待ち望んでいたわたつみ海神の古き神々が復活しつつあるのを理解した。こうして彼と現実と虚構の中で霊界と顕会の混乱が生じ始める。彼の描いた物語的世界が息を吹きこまれ彼のライバルとなる。何時かは両界の王の矜持と自負に於いて出し抜かねばならない。その時期はいつか。――

 しかし決起の季節は少しも美しくはなかった。美的でも倫理的でもなかった。1970年が暮れようとする頃、首都の日常は昨日の、60年代の熱気と喧騒を忘れたように秩序正しく平凡だった。それは清潔さと不動の偽りの盤石さを取り戻しているかに見えた。”おれはだまされないぞ!” 現実が茶番でしかなかlっつたように『豊饒の海』と云う書物の終わりもまた茶番じみて終わらざるをえなかった。茶番というよりグロテスクと言っていいほど無機的に無意味な終わりだった。
 学生たちが居なくなって寂と静まり返った環境の中に取り残された三島は、ともかく画龍点睛の最後の点睛の筆を振るわずば、という程度の自負は未だ持っていたのである。彼は手負いの追い詰められた闘牛の牛のように、あるいは井吹山に死んだ古代の英雄のように、最後の一太刀を奮う余力をかろうじて残していた。こうして、感激の無い、空威張りの、怒りんぼの、孤独な市ヶ谷の三文オペラの幕が開いたのである。しかし時代を締めくくるものとしての画龍点睛が、ある意味での思想的総括が、彼自身の構想をも遥かに凌駕する規模で、地下で進行中であったこと、つまり赤軍派の鬼子どもの存在を三島は知っていただろうか。彼自身を遥かに凌駕するほどの真の意味でのデカダンス、絶対的な悪の存在なのである。二度目は茶番どころではなかったのである。

 ともあれ三島は、『豊饒の海』の無味乾燥の無機的感激の無さは、自らの決起という行為で乗り越えられる、と考えていたのかもしれない。晩年の三島にとって、彼の物語空間と現実は相互浸透する地続きのものでありえたように、書かれざる最終章は彼自身の行為である、と云いたかったのかもしれない。
 彼が死んでから四十年以上たつが、犬死だったと云う気は最近不思議にしなくなった。三島は、60年の樺美智子になりたかったのではなかったか、と最近はそのように優しく思うようになった。

 三島の評価は、デカダンスに関しては、最大級の上げ底を進呈して、(1)という事にしておこう。彼への餞の気持ちとして・・・。(本当は、(2)だと思うのだが)


 


夏目 漱石(なつめ そうせき、
1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日


 デカダンスの締めくくりは、漱石を論じることで一応の終わりとしたい。
 いままで幾度か云って来たことだが、『三四郎』は夏目漱石の著作中、極めて中枢的な位置にある、と思う。二年ほど前の『草枕』では未だ低回趣味というか、江戸期風の戯作趣味、文人趣味の悪臭は抜け利っていない。ただ熊本で幾らか親しい関係にあった那美さんのモデルとの出会いは一つの画期をなした。その本当の意味について漱石が理解するのはかなり後のことになるのだが、この出来事は尾を引いて、『三四郎』の中で美禰子として復活する。余程因縁の女性だったのであろう。

 『三四郎』は、田舎出の青年が都会に出て社会の諸相を学ぶと云う、青春冒険小説、古くからある古典的教養小説と云った枠組みを持っているのだが、ユーモアあふれる学園小説としての鮮明度が本を閉じた瞬間から、まるで印象派の絵のように輪郭を失い、既知であると思っていた登場人物の個々の群像が、一挙に暗転してして何故めいてくると云う、ミステリーなのである。

 その謎を解く鍵は、次の句にある。

Pity's akin to love 哀れみは愛に類似する

 漱石はこれを、

「可哀想とは惚れたと云う事よ」

 とべらんめえに訳しているが、当時の明治人にとって、身分制度や社会的属性からは独立した異性を純粋に愛すると云う行為は、近代そのものとの遭遇と殆ど等価の関係にあったことが分かる。

 この句が言及されるに及んで、いままでおっちょこちょいと思われていた不良学生佐々木には、読者の方からは必ずしも見えてこない謎めいた側面、謎めいた過去、鬱屈した青春の断層、人物造形としての陰影があることが分かる。
 また、彼らの共通の教師である広田氏がなにゆえ独身を通そうとしているのかの理由が粗方推測がつくようになる。野々宮なる優柔不断な青年の動向も意味性を帯びてくる。そして何よりもヒロインである美禰子が単なるコケットリーの女だけではなかったことが分かり始める。美禰子とは過去に一度挫折を経験した「新しき女」だったのである。つまり『草枕』の那美さんの転生した姿なのである。

 美禰子の独自さは、通常の新しき女のようにイデオロギー武装したり同類の異性を求めて反抗的な態度を撮ると云う風には成らずに、知的な洗練がある。ちょうど漱石が愛読したイギリスの女流小説家ジェイン・オースティンの小説の主人公のように、愛が育つにはそれなりの条件が必要であり、その条件とは豊かな家庭環境であり、経済的な事情であり、背後の後見的人間関係である、という事を理解していた。女であるより前に人間的に生きることが出来なければ愛が育つなどという事はないのである。何ものにも代えがたい至高の愛があるかのように空想するのはロマン主義に被れた頭でっかちの一部の知識人であることを彼女は何よりも了解していた。それで彼女は近代的な愛とは係り合いの無いお金持ちと結婚するのであるし、そのような生き方が三四郎の眼に理解しがたいものと映じても、寛一お宮の物語のように憤慨する権利はわれわれにはないのである。

 今にして分かるのは、コケットリーとも見えた美禰子の三四郎への思わせぶりの所作は、近代を経過したもののみが感じる、失われた人格の純朴さへの回顧であり、愛惜なのであった。それは成熟を予感したもののみが知る喪失したものへの愛なのであった。その都会人の苦渋を、都会に出てきたての三四郎は自分への個人的な好意であると勘違いするのであるが、都会的洗練の度合いや社会的経験の差の不整合は明らかではないのか。それを未だ理解しえないほど三四郎は純朴であり初なのであった。

 ご覧のように、三四郎は小説の終わりに於いても未だ近代を見出してはいない。彼の身が『三四郎』の世界にある公然たる秘密の存在を知らない。彼は近代の洗礼を受けたもののみが知る固有のサインが額に刻まれてあることに気づかないほどに初なのであるが、近代との遭遇はついそこまで来ていて、その影響力はやがて彼を地獄の底に引き落とすほどの強制力を持つものなのであるが、それを知ってか知らずか謎めいた女性の言動をあれこれと鼻の下を長くして思案するばかりなのである。それは知ってか知らずか苦闘する作家夏目漱石その人の自画像でもあった。


 『三四郎』は近代との出会い、遭遇を、近代が未だ形を表さぬ予兆としての未然の形で描いた、極めて貴重な明治のドキュメントなのである。
 近代日本文学史を通観すると、鴎外のように近代を眼前に見据えて対象的に描くことは出来る。谷崎のように、斜に構えて日本古来の芸術的原理によって近代主義を迎撃しようと作戦転換することも可能である。鏡花のように、必敗の意思を持って怨念をもって対峙することも可能である。藤村のように、じわじわと重戦車のように後退しながら殿(しんがり)備えとなって、後退作戦を生き抜くことに唯一の意義を見出すと云う事も可能だろう。しかし、近代と日本との遭遇を、未然の現在進行形に於いて、臨場性溢れる描写を成し得たのは、ひとり『三四郎』の
漱石がひとりあるばかりなのである。

 わたしたちは既に、近代を経由しないものとしての鏡花の生き方を観てきている。近代を迂回して芸術の城砦に閉じこもることによって却って文明批評家たりえた谷崎の生きざまを見てきている。近代が齎した傷痕の根は深く、近代の害悪そのものを自らに受肉させつつ破滅する、川端-三島の二代に渡る物語もあったのである。
 『三四郎』のテーマとは、未だ形をなさない未然としての近代との遭遇は人間を果たして幸せにするのか、と云う根本的なテーマなのである。同様に、それからほぼ一世紀を閲して、私たちは漱石の問いを、半ば過去形に於いて問う事が出来るのである。近代は人間を幸せにしたか、と。