アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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映画 『美しさと哀しみと』アリアドネ・アーカイブスより

映画 『美しさと哀しみと』
2012-09-02 18:06:45
テーマ:映画と演劇

 

 

 

 


 


・ 『古都』と並ぶ、川端の京都もののひとつである。もともと雑誌のエンターテインメントとして書かれたのだから、まともに川端文学を論じる対象としては適当でないのかもしれないが、両作とも私の印象では忘れがたい印象を残す。しかも『古都』と『美しさと哀しみと』の両作は、同じ京都を描きながら、さながら純愛と妖美と云う彼自身に内在する両極端を、娯楽小説として描き出している点に於いても注目される。しかも、本作は元来川端文学の原点とも目される『伊豆の踊子』を作中、『十七歳の少女』と云う劇中小説に於いて象徴させており、もしかしたら川端自身による自己批評、自らの作劇法をそのまま取り込んだ自己対象化の試みとも読めて、なかなかに感慨深いのである。それにしても、本作に描かれた川端自身をモデルにしたと思われる作家・大木の姿は醜い。ここまで自己を描くのに偽悪的である必要があったのかと思われるほど、川端の筆致は透徹しており、情け容赦がない。三島由紀夫折口信夫に仮託させながら自らの自画像を辛辣に描いた短編があるが、この両者に共通する乾いた叙情性、辛辣な自己批評には敬意を払わねばなるまい。

 本作は、小説の方も良いけれども映画の方は、――大仰なと云われるかもしれないが、保存しておきたい文化財的な意義を有するのではないかと見始めて直ぐに感じた。篠田監督の抒情的にしてクールであると云う映像文法は何時もの通りなのだが、八千草薫加賀まり子と云うダブルヒロインの美しさは、得がたいキャストであると云うか、この二人の個性的な女優たちが今まさにこの時でなければ演じられないような一回性を帯びたものとして映じるのである。
 分かりやすく言えば八千草薫を岩下志摩で代行させることはできなかったろうし、加賀まり子に関しては現在に於いても清純と妖美さを同時に感じさせるキャラクターは存在していない。演技とかいう以前の自然性としての彼女たちが持つ特性なのである。

 

 この容易ではない映画がまた同時に容易ならぬ事情を川端文学の中で抱え込んでいると云うのであるから、映画・小説、両面に於いて得がたい文化資産であると云う事が出来る。

 さて、物語のあらすじと云うのは、二十数年ほど前作家・大木は十七歳の乙女・音子と関係を持った。大木は五十五歳と云う設定であるから、当時、三十を過ぎたばかりの中年男と云う事になる。大木には妻もいた。大木の音子に対する愛は真剣なものがあったが結婚する気はなかった。大木のために弁護すれば大木の愛は、結婚や家庭生活と云うようなこの世の約束事とは別の事だったのである。しかしそれはそうであるにしても、音子に対する愛が、中年男らしい欲情であったことは否定できないだろう。音子はそうした成人男子の二重性を全て受け入れて純粋に男を愛し、子を身ごもり、流産させた。自然に流産させたのか、情事の終わりの定石的顛末として男が流産させたのかどうか明示的には描かれていない。何れにせよ、身ごもった嬰児を愛のほの暗い顛末の中に見失うと云う経験は、少女に根深い後遺症を残すことになった。
 大木が罪深いのはこれだけではなかった。かれはこの顛末を『十七歳の少女』(伊豆の踊子)と形を変えて描き直して作家として名をなした。自らの欲情を切り捨て、ひたすら美しき側面のみを描いた純愛小説は多くの読者を獲得した。大木家の家計にも貢献した。作家・大木はそれを良いことに、原稿を浄書する手段としてその物語の終始を、嫉妬に狂う妻にタイプ打ちをさせることを恥じなかった。
 
 こうした前段があって、今は有名な日本画家となった音子を、暮れの大晦日に京都に訪ねる、と云う処からこの物語は始まる。
 音子には坂見けい子と云う女の弟子がいて、同性愛の関係にある。物語の進展を追っていくうちに、どうやら日本画家・音子の描く絵は、陰鬱でグロテスクな嬰児を題材としたアブストラクトな絵であることが分かる。つまり今を去る二十数年前の大木との愛の生活の象徴でもありえた嬰児喪失の体験を浄化すべく絵筆をとると云うのが彼女が画家になったと云う動機であることが分かる。そしてこの愛の経験が破綻した後は、もはや男に触れる事の出来ない不全性、同性愛のみを許容しうる不完全な感性のあり方を求める女性になってしまった、ということだろうか。

 坂見けい子、――この「怖いように美しい」と評される女弟子が、音子の描く、浄化しきれない怨念の現世における薄気味の悪い再現であることは明らかだろう。こうして子の女は、大木とその息子を同時に誘惑し、他方では音子に、二十数年前に流産した嬰児の代わりに私が大木先生の子を生んで差し上げましょうか、と平然と云い放つ。ここにおいて音子は、画業と精進の中で浄化しえたと思っていたあの事件が、浄化するどころか、彼女の絵の中から浮き出て来て、大木にと云うよりも、世俗の生活と云う全体に対して呪詛していることを見抜く。そして、それを抑止できないのは、坂見けい子が、何よりも彼女自身の分身であるからに他ならなかったからである。

 こうして坂見けい子は、大木とその息子の太一郎を同時に誘惑し、関係を持ち、そして復讐の総仕上げとして太一郎を琵琶湖に誘い出し、自らも溺れ太一郎を溺死させる。彼女は一命を取り留め、呼びだした、音子、大木夫妻の云い合う修羅場を前にして安定剤を飲ませられ昏々と深き眠りを眠るのだが、ことを成し遂げた彼女は、知ってか知らずか、仏像のような純真な涙が一滴目じりを伝うのであった。映画はここで終わっている。

しかし『美しさと哀しみと』が提起した問題はここでは終わらない。この後川端はノーベル賞を受賞するなど、栄誉を極めるのだが、小説の中の作家・大木がそうであったように、川端の内面の底にあるものは世俗に染まりきれぬものがあった。功なり名を遂げた大木が京都に音子を訪ねたように、また、自らの作画した画像の中から嬰児がこの世ならぬ「怖ろしいほどに美しい」阿修羅としてこの世に浮き出てきたように、「坂見けい子」が最晩年の川端の内面に出現したというようなことはなかったのだろうか。
 ところで、『美しさと哀しみと』であるが、音子はこのあとどうなっただろうか。音子は自殺するだろうと思う。音子は、ある意味では生涯癒しきれぬ世俗への想いを怨念と哀愁の中に描いた画家であった。家族の愛から見放され、束の間の思春期と云う同性愛の中にこの世ならざる至高の愛の姿を観じた人間にとって、世俗を生き直す意味などありえただろうか。死んでも良いと思うほどの愛の経験をした人間にとって、そもそもこの世に拘泥するような意味があっただろうか。
 私が暗然としたのは、『美しさと哀しみと』の音子に遠からず訪れたと思われる未来の結末と、この作から七年後川端が選択した不吉な一致なのである。

 

#観劇
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