村上春樹『風の歌を聴け』の意味するもの・上 アリアドネ・アーカイブスより
村上春樹『風の歌を聴け』の意味するもの・上
2012-11-01 15:43:12
テーマ:文学と思想
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・ 村上春樹の処女作『風の歌を聴け』は、それ以降の作品とは幾つかの点で違っている。
第一は、”鼠”と綽名で呼ばれる副主人公の設定、――金持ちと貧乏人と云う彼が信奉する二元的に対立させる言説が、如何にも時代遅れのセピア色に退色した戦後的なイデオロギーを彷彿させていることである。これは必ずしもこの小説の欠点とはならない。アナーキーでハングリーな情念の表出において、村上は戦後的な価値観のステロタイプ性を代表させているのかもしれないからだ。
第二点は、誰にでも好かれる”ワタナベ君”のような描き方がされていない。酒場のトイレで泥酔していた少女をアパートに送り届けて、その親切の挙句に主人公が頂戴する言葉は、あなた、最低ね!と云ったものである。
主人公は、激昂するふうでもなく、積極的に誤解を解くふうでもなく、クールに醒めた風にも受け止める。この無感動、無気力さが、村上が好んで描いたあの時代の記憶を彷彿しないでもない、と云う描き方である。
やがて、自らの含意において誤解を解くその少女には、実は指が四本しかない。親しくなっても、主人公の目をはぐらかして密かに堕胎をするところなど、『細雪』の妙子を思わせる、場末に生きる者のもの哀しさである。貧乏人には、貧乏人が見分けられるし金持ちの雰囲気が分かると彼女は無感動に云う、その言い方に彼女の生い立ちと貧しさが浮き出ている。
深夜ラジオのDJと云う、電波の波に乗って伝える乾いた響きは、あの六十年代を経験していないと分からない感覚だろう。キンキンとしたハイテンションの一人興奮したDJの語りが、夜のしじまの青年の孤独さを、夜の闇に余計に浮き上がらせている、ということはなかっただろうか。
事実、通常の小説の語りの文体を切り裂くような形で、DJの文体がこの所説の中に幾度か登場する。語り手のトーンが過激で甲高くあればある程、あの伝えようのない時代の熱気、マグマのような徒労観と焦燥観の雰囲気を表現している。
DJが持つ語りの文体は、”引用”と云うか”異化”作用と云うか、通常の小説には無いリアリティを与えている。60年代に流行った、ビートルズ、ビーチボーイズ、マイルス・デイヴィス、そしてグレン・グールドに至る固有名詞の”引用”が、一方では後に隆盛をきわめる”オタク”的技法の原型として、他方では鮮度の高い”サンプル”として機能している。普通の旧態然とした小説作法を学んだ者には決して書けない小説である。
小説の最後の付近で、DJはある難病に侵された少年(少女)の消息を伝える。
僕は・君たちが。好きだ。
、と。
この逆転は、鮮やかである。鮮やかであると云う以上に、見事である。
『風の歌を聴け』の「歌」とは、死者の声を聴けと云う意味のことだと思う。1963年のケネディの死を固有の経験として語るこの小説において死者とは戦後の夢の死であり、六十年代の青春への挽歌なのである。
しかし2012年の10月この小説を読んで私が感慨にふけったのは文学論的価値や固有な小説論についてではなかった。
村上春樹の『風の歌に聴け』の1979年における登場は、小説と云う分野の変革と云うよりは、広い意味での読書階級の没落を意味していたのではなかったか。
心理的な情緒を纏綿とさせた在来の文体から、その及びもつかないような形で、”ポップ”でクールな文体がとってかわるとは、文学観そのものの変化を意味していた。『風の歌を聴け』には内面が描かれていない。否、登場人物たちに内面はない。その空洞が持つ暗がりはある種のもの悲しさがあるとはいえ、空虚でがらんどうであるだけに、何か突き抜けたような、軽みと云うか、ポップな明るさに通じているのである。それが”カルフォルニア・ガールズ”の意味するものである。
ドストエフスキーやプルーストがかけがえのないものとして死守せんとしたもの、それこそ19世紀的な意味での内面であった。ロシア革命がレーニンやスターリン型の内面なき人間像に代替わりしたように、文学の世界に於いても同じことが生じた。もはや文学が内面を尊重する読者によって支えられると云う事はなくなったのだった。