アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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熊本旅・二題(再録) アリアドネ・アーカイブスより

熊本旅・二題(再録)
2019-02-16 18:27:35
テーマ:文学と思想

先の記事の中の付録である
「近代熊本と漱石」と「その後の熊本の県民性」
を再録いたします。

 私が生まれ育った郷里・熊本へは年にニ三回ほど帰っています、お墓参りも兼ねて。
 福岡から熊本へは三本の道があります。
 一本目は、よく利用する背振を超えて佐賀県に出て、柳川から湾岸の自動車道路を大牟田まで走り、有明海に沿って走ると云うもの。途中、漱石所縁の『草枕』の舞台、那古井館を通ります。金峰山の方に分岐する峠越えをすれば、峠の茶屋の旧跡を経由することもできます。峠を降り切って市街地に接する山裾の先端部に清正公所縁の本妙寺があります。
 二本目は、筑紫野道路を南下して、久留米、筑後みやま市大牟田、玉名、植木と、国道209、208をひたすら平坦部を南下するものです。この道もよく利用します。
 最後の小栗峠を県境で超える国道3号線のルートはたまにしか通りません。今回は意気は第二のコースで、帰りは久しぶりに第三のコースを選びました。
 車を利用していた頃は高速道路しか走りませんでしたが、最近は様々な道を選んで走ります。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

(注・1) 付録・「近代熊本と漱石
 夏目漱石の『三四郎』(明治41年)は、明治の末年には熊本の青年層がどのように変化したのか、という見本である。豊前の生まれで熊本の五校を卒業し東大に入った三四郎は、二十三歳にもなって、人生にも社会にも、そして女性にも未経験と云う、純朴そのものの田舎青年として紹介されている。
 漱石は、この書かれざる無記のキャンバスのような青年がどのように成長していくのかを描きたかったのだと思うが、熊本の近代史には――そして近代日本においても――断絶があって、明治後期の五校生はかくも郷土史の有為転変についての記憶そのものを無くしていた、と云う風にも読めます。パブリックのナンバースクールの一員のエリートとして胸を張る一方、知識層の大部分は立志は頭脳に描いても、歴史的感受性をかくも見事に喪失していくのです。
 三四郎や熊本の知識層が、と云うよりも、明治の文豪自体が自国の近過去の歴史についてはこの程度の認識で満足していた、と云うことでしょうか。
 同様のことは、『草枕』(明治39年)において、より顕著に言えることです。この小説には那美と云う謎めいた女性が出てくるのですが、近代熊本史の背景を調べると、近代熊本史の疾風怒濤期における残骸のような人物のひとりなのですね。単に風変わりで美貌の、知的な女性と云うのではない、過去に傷痕を負った女性なのですね。彼女の過去の二重性を、花の東京から来たての都会人夏目金之助には読めない、やがて読めるように次第に漱石の眼は日本近代史の明暗に開かれていく、と云うことなのでしょうね。
 『草枕』の見方を経由して、先に述べた『三四郎』を読み直すと、謎めいた女性小宮美禰子と那美さんが精神的な姉妹であることがこれだけの資料だけからでも分かるのです。明治の先進的な女性小宮美禰子が見事に志を失って俗物になり果てる物語ですが、当時流行った『金色夜叉』とは違って、ダイヤモンドを内側から描いた点にこの小説の優れた特質があります。
 さりながら形ある知識としては理解していなくても、芸術的造形力のレベルでは描いている、そこに文学の力と云うか漱石の力量の一端が感じられます。文豪が文豪であることの所以ですね。

(注・2) 付録・「その後の熊本の県民性」
 明治期の清新な青少年とそれに同調した有力な年長者たちが歴史的時間の圧力と明治国家の権力に淘汰されて、歴史の引き潮のあとに残骸のように残されたものたちが自若の気持ちで自分たちに対する評価として受け入れたのが、比較的有名な「肥後もっこす」の気質です。地元では良いことのように理解している人も少数ありますが、歴史的経緯を理解すれば、自分本位で独り善がりのこの立場は、本来的に少しも良いことではないのです。