アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ヴァージニア・ウルフ『ジェイコブの部屋』の女たち――黄昏のロンドン(73)

ヴァージニア・ウルフ『ジェイコブの部屋』の女たち――黄昏のロンドン(73)
NEW!2020-02-16 20:24:50
テーマ:文学と思想

本年一月度の一番読まれた私の文章になります。文芸欄の他に、オペラや音楽関係、絵画、各種の趣味や旅行記などの雑記もあるなかで、結局、このような地味な記事が読まれているようです。この傾向は、以前属していたYahoo!blogの十年間においても変わらない傾向で、日々の日常些事を書いたものよりも、書こうとする対象が明確に指定されたもの、文学や哲学のなかでも一般性の高いものよりは、よりマイナーな領域に係わるものの方が、長く読まれているようです。

 

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ヴァージニア・ウルフ『ジェイコブの部屋』の女たち――黄昏のロンドン(73)
2019-08-08 17:00:50
テーマ: 文学と思想


https://blogs.yahoo.co.jp/takata_hiroshi_320/12557309.html?__ysp=44GY44GH44GE44GT44G244Gu6YOo5bGL


 読んでから九年以上が経過した。当時も苦労して読んだが、今回も印象は大きくは変わらなかった。ジェイコブと云う一人の青年を中心に、彼を様々な観点からひとが語る、数十人の影のような、経歴の未定の者たちが語る、未然の物語、と云えばよいだろうか。
 作者は、様々な階級間の人物の語りを通して、一つの時代を描こうとした、とは云えるであろう。

 モダニズムにも関わらず古風である。ギリシア文化とシェイクスピア、そして偉大なる18世紀の、陽の沈むことのないと讃えられたイングランド!これがさしあたりはこのロマンの表層を示すジェイコブとヴァージニアの文化的基層である。これと対岸側にはウルフが軽蔑してやまない19世紀と現代文明がある。そしてこれらを包み込むようなローマ時代以前の古代ブリテンがーートマス-ハーディの文学に描かれた原始時代の記憶がある、必ずしも意識的、明示的に描かれているわけではないが。

 ジェイコブが憧憬を描く人物として二人の印象的な人物が出てくる。クララ・ダラントとサンドラ・ウェントワース・ウィリアムズ。19世紀イギリス文化の精華のような彼女たち、ジェイコブがクララと婚約するに至らないのは、寡婦の手で育てられ意図せずして階級上昇を果すかに思われたジェイコブの違和感だろうか。しかし彼が愛するのは、年上の貴婦人、まるでラファエル前派の美人画から抜け出してきたようなサンドラなのである。彼女は何時もギリシア婦人のようなたっぷりとした布地の白のドレスを揺すらせながら、帽子を被ってレースの翳りの奥から微笑みかける。チェーホフロシア文学の愛好者の彼女に、ジェイコブはジョン・ダンの詩集を送る。彼女もまたジェイコブの端正な容姿のなかにギリシア風の青年を連想するのだが、実在した彼女の恋文が公開されることはない。
 ジェイコブが恋心を抱くのは、深窓の令嬢、清純なクララではなく、年上の成熟した夫人サンドラである。ウルフはクララの語感にダフニスとクロエのクロエを連想させ、サンドラは私にはアレクサンドラやカッサンドラを思わせる。悲劇と憂愁の気分は、家庭生活と云うものを持たなかった彼女の少女時代への、ウルフにしては珍しい言及にも現れているが、囚われの妙齢の美女と云うイメージはジェイコブ好みのものでもある。

 クララやサンドラと云う上流階級の女たちを相対化するものとして、ファニー・エルマーやフローリアンと云う女性たちが登場する。彼女たちは娼婦であるようだ。彼女たちの愛が、階級間の壁、とりわけ文化の壁を超えることはない。とりわけファニーの別れを予感した愛は憐れである。

 文化の壁は、ジェイコブと母親のベティ・サンダースの間にも存在する。母親は、ジェイコブが知性によって階級上昇を遂げたあとの姿を知らない。息子は真の姿を母親に告知する暇もなく夭折してしまう。何時の世にもある永遠の母の嘆き、という意味でウルフは「イングランドの刀自」の称号を彼女に贈っている。
 ベティ・サンダーを深く、歴史的、自然史的存在として印象付けるものとして登場してくるジェーヴィス夫人がいる。彼女は牧師の妻なのだが、荒野を彷徨う彼女の面影のなかには、『マクベス』に描かれた魔女たちの面影がある。彼女は信仰を失う類の女性でもあるとウルフは書いている。同時に牧師の妻と云う社会的規定性を生涯において逸脱することはないだろう、とも。荒野がある限り、彼女の文明との間に介在する違和は、補償作用を受け、ある種の均衡を逸することはない。
 彼女は田舎に住まう大衆と云うよりも、大衆を逸脱した存在である。彼女が村人から愛されることはないと、ウルフ自身も書いている。彼女は、キリスト教よりも文明よりも古い、マクベス的な存在なのだ。しかしその姿を現すことはないだろう、己の正体を衆愚の目に晒すという愚挙をとることないだろうとウルフは言う。
 この小説の語りでは、大衆から孤立した存在であるジェーヴィス夫人がなぜかベティ・フランダースとペアとして語られることが多い。大衆と云うよりも、柳田国男の言う常民の母とでも云うべき法活力と抱擁そのものである彼女が、なぜかジェーヴィス夫人と気心が通じ合うのは、荒野の経験を通してなのである。
 荒野は、原野に忘れ去られたローマ時代の砦の石たちと共に語られる。トマス・ハーディの『テス』のストーン・ヘイジを思い出した。ハーディは、彼が最も愛する小説のヒロインを葬るのに、南イングランドの荒野を選んだ事情と通じるものを感じる。

 文化・文明のなかに突如出現する、荒野、とは何なのか?

 クララは、終わりの方で知人のロートリー氏から「あなたの荒野のことを思い浮かべてごらんなさい!」と語りかけられる。

 クララの、荒野、とは何だろうか。

 サンドラ・ウェントワースもまた、「棒から棒へと曲芸師のように彼女の全空間を横切って、揺れ動くだろう」「彼女はあの瞬間の魂を再び吸い戻す」べく、ウルフの言う「存在の瞬間」に刹那、触れようとする。それは事実としての経験としてあったわけではないが、既視感として誰もが持っている予感、予兆として、未来時制の痕跡として黄昏の人間的時間のなかを彷徨える魂のように彷徨し、揺曳し、震えを帯びて呻吟する、生きられることのなかった未成の時間たちに向けられた花束、あるいは手向けられた祈りであり悲願であり嘆願なのである。

 これは未然に終わったものたちの未完の物語である。