アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ヴィスコンティ『若者のすべて』と『家族の肖像』アリアドネ・アーカイブスより

ヴィスコンティ若者のすべて』と『家族の肖像』
2012-11-08 10:48:00
テーマ:映画と演劇

http://www.cafebleu.net/movie/visconti/cinema/rocco.jpg


・ 原題は、「ロッコと彼の兄弟たち」、イタリアではロッコとは有名な聖人であるらしいから、聖性に関する物語であることは映画を観終わってからやっと分かる。その辺が日本人には素直には、第一印象としては、分かり難い。

 ネオリアリズモだから極端な状況の典型化が描かれる。南部の貧しい一家が父親の死を境に豊かな北部に移り住む。頼るべき相手は数年前にミラノに移り住んでいる長男しかなく、彼には新しい都会の環境に適応するのが精いっぱいで、家長としての意識は乏しい。父なるものを見失った旧約的な世界の物語である。
 南部と云う貧しいけれども伝統的な共同性が色濃く残っていた世界を去って、都市の豊かな文化に触れることで、家族の成長もあるけれどもそれ以上に、根本的なところで彼らは大切なものを失っていく。長男は新しく築きつつある環境の中で彼らを援助する力はない。二男はボクシングで一旦は富を手に入れるが、ふと知り合ったミラノの女を追いまわす過程で本来の性格的な弱さを露呈して行く。四男の末っ子は、意外に現実的な選択をして、貧しい中で夜学で学び大企業に就職し、技術者となる。三男のロッコだけは奥手で夢見るような眼差しで家族の紆余曲折に満ちた変遷を見つめている。母が選んでくれた継ぎはぎだらけの服装でも恥ずかしいと思わず、クリーニング屋女工たちの手元のような仕事でもささやかな給金に満足している。給金を貰える日を当てにして二男が店に来ても黙ってお金を貸してやるほどのお人好しさ加減である。
 物語が悲劇の様相を帯びるのは、二男が追いまわしていたミラノの女が偶然からロッコに好意を抱くところからである。一旦は徴兵に行くことで二人の関係は中断するが、除隊の後また他の用事で出会って、ロッコの方はそうでもないのだが、ミラノの女にとっては愛が今までの自分の生き方や経験を自省させるほどの経験となって出現する。半娼婦の疲れた崩れた半ば哀愁を帯びた美しさと、その掃き溜めのような自分自身の半生の履歴の中に花咲いた一輪の純粋なものの輝きを、名女優アニー・ジラルドーが実に上手く演じている。背徳と純情すれすれの儚い燦めきを過去の銀幕に焼きつけて、アニー・ジラルドーの演技は流石に感動的である。
 ロッコと二人の関係を仲間から聞かされた二男は示し合わせて仲間と逢引きの場所を襲いロッコの目の前でミラノの女を暴力的に犯す。この場面の凄惨さはこの映画で話題になる場面である。ロッコは兄を憎むよりは兄の為に女との愛を断念する。二人の間に越えることのできない壁が出来て身を投げようとする女と、追いつ抜かれるする場面がジャケットの写真、ミラノの大聖堂の屋上を描いた場面である。
 この出来事を境に二男は身を持ち崩し、ロッコもまた家計を助けるためにプロボクサーの道を選ぶ。ロッコがクリーニング店を辞めるのは家計と実入りの良い収入の為だけではないが、女の園のような女性ばかりのクリーニング屋に閉店後押し掛けた二男が店の女主を暴力的に犯す場面も背徳、暴力性と甘美、人間の獣性を描いて流石と思わせる場面である。
 前途に絶望した二男は、相も変わらず男遍歴を続けるミラノの女を、追いすがりまろびつつ刺殺する。この殺害シーンは長く執拗である。命乞いをする女の体に何度もナイフを突き立てる。この凄惨な場面が単なるリアリズムではないのは、ナイフを持った男が殺意を持って女に足早に近づいていく場面である。観客は白黒の画面で大きな男の背中越しに女の動作を確認することになるのだが、男の最中の映像に災いされて女の像がよく見えない。ナイフで胸を刺される寸前に半ば抵抗の意志を示したのか女は大きく両手を広げるが、それが何事かを受け入れているようにもまたキリストの受難劇を再現しているようにも、どちらにも見えてしまう。ヴィスコンティのネオリアリズモが単なるリアリズムではないことをここでも我々は知る。ヴィスコンティの演出もさりながら、凄惨と純情を、聖性と背徳を同時に演じることが出来る俳優としてのアニー・ジラルドーに敬意を払いたい。
 主演のアラン・ドロンもまた素晴らしい。夢みるように人生に奥手でささやかな境遇や環境に満足して生きる青年の植物的に柔和な眼差しが、プロボクサーになる決意を境に狂暴に闘争的な視線に変化して行く場面が圧倒的である。変化と云うか変貌の怖ろしさは、やはり並の二枚目俳優では不可能で、水際立った美貌の男優でなければここは不可能である。しかもドロンの中にある下積みで伸し上っていく行く野望が持つ獣性と、柔和で羊のような聖性の両面を上手く引き出している。多分、ドロンはこのあと美男俳優としての評価が定着して次第にこうした相反するアンビヴァレンス、それから純情さ、謙りの姿勢が齎す聖性を演じる機会を失って行ったのではなかろうか。
 一家の一家離散と没落の様子を、カメラは一家が住むインテリアが馬小屋のような貧しさからしながらやがて集合住宅の人並みさへ、人並みの暮らしぶりから功なり名を遂げつつあるロッコの祝賀パーティーの華やかな場面を描くことによって、物質的な豊かさと精神の反比例の関係を描くことによって戦後イタリアの成熟と喪失を象徴的に描いている。
 その祝賀パーティーには、赤ちゃんまで生まれた長男夫婦の幸せな姿もあった。いまはフィアット社のエンジニアとして社会的身分を次第に手に入れつつある四男の姿もあった。母親は過ぎる過去を思って幸せだったろうか。この場所にただひとりだけいない人物があった。そしてその男が、今は犯罪者となって官警に追われる身分となって、招かれざる客となって訪れる。紛糾する家族の動揺の中にあってロッコは、自分たちにいま必要な行為とは裁くためのものではない、と云う。なぜならこの場で裁くことは誰にも出来る「他者」の行為であるからだ。むしろ肉親とは彼だけに出来る、固有で可能な行為を成すべきではないのか。その彼の願いも空しく「社会的な正義」を代表して四男がかけた電話によって二男は逮捕されることになる。
 この映画を観終わって感じたのは、同じ時期に『山猫』のような作品をヴィスコンティが撮っていると云う不思議さであった。ヴィスコンティには晩年になって『家族の肖像』と云う室内楽のような作品を制作するが、イタリアの戦後というものが何であったかを描いたのが『若者のすべて』であったとすれば、その遥かなる残響音を聴くことが出来る。自分自身の生きてきた時代に、それを過ぎ去った単なる過誤とするのではなく、自省とある種の感慨を籠めて描くと云う行為に於いて、ヴィスコンティの生涯の重みを思い出させたと云う意味で『若者のすべて』と云うかこの映画を観ることはは貴重な経験である。

 晩年の『家族の肖像』との対比で云うならば、『若者のすべて』は、『家族の崩壊』と云う題名でも良かった筈である。イタリアの戦後史が、共同体の崩壊の上に築かれたと云う意味である。ドロン演じるロッコが最後に故郷を懐かしんで言う。――ここにいる誰かが、何時か故郷に帰って生活を再建して欲しい、と。しかしその望みは、ロッコの希望への希求が切実な願望であればあるほど後すざりし、『家族の肖像』にみるような戦後の風景が展開することになる。『家族の肖像』の老教授が最後に抱きしめる青年の骸は、ヘルムート・バーガー演じる青年であったが、ドロンであってもかまわなかったと思う。自分たちが築き上げた戦後社会と云うものを、それがよきに付けあしきに付け、単にロマン主義的な感傷的な態度をとればよいものでもないし、自分たちが築いてきた映画人としての営為を徒労とも思わない、と云うヴィスコンティの全生涯を述べた述懐の志としてわれわれは受け止めたい。