アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『羊をめぐる冒険』を読む・上 アリアドネ・アーカイブスより

羊をめぐる冒険』を読む・上
2012-11-12 22:57:13
テーマ:文学と思想


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・ このところ少し丹念に村上春樹の初期の作品を読んだ。そこで感じたのは、デビュー作『風の歌を聴け』とそれ以降の作品群との間には、「切断」があるのではないのか、と云う疑問だった。実はそのことも意外だったのだが、それ以上に不思議だったのは、「切断」についての言及がまるで見られないと云う点であった。勿論、幾つかの当時の資料にも当たってみたのだが、私の知り得た範囲で云うならば、余りにも明らかな――である、と私には思われる――「切断」がまるで見落とされている、読むほうの側で。

 『風の歌を聴け』は、普通に村上春樹と思われる特徴――例えば代表作『ノルウェイの森』など――と違う点がある。

 一つは、小さき者、社会の片隅で生き死にする弱者に寄り添う作者の姿である。裕福な家庭環境の出身で履歴についても極端な紆余曲折があったとは思えない村上春樹の外見上の「平凡さ」が、どうして下積みの人間に共感を寄せる様になったかは、詳細な履歴が検討されるようになれば明らかにされるのかもしれない。私の考えは、履歴とは無関係に、弱者への共感は生得的なものではなかったかと考えている。

 二つ目は、自分自身を見る目の距離感である。これは『ノルウェイの森』などにみられる、距離感の「近さ」とは対照的である。

 例えば『ノルウェイの森』の構造は、最初の1ページを読んだだけで理解できる。ビートルズのスタンダードを聴いて感傷的な気分になる主人公と、それを気遣う外国人のスチュアーデスの対応、それを自然に受け止める主人公の感受性のあり方、以後も主人公が新たに人と出会うたびにこのパターンは繰り返される。主人公に敵はなく、誰にでも好かれてしまうと云う描き方である。
 
 『風の歌を聴け』ではどうか。
 行きつけのバーのトイレで泥酔した少女を介助した上、自宅まで送り届ける。そしてそのまま朝を迎えてしまう。何時の間にかベッドで裸で寝ていた少女は、親切なのは認めるけれども何故用がすんだら帰ってくれなかったか、青年の度を過ぎた親切さを非難する。その挙句、主人公のことを最低の男だと云う。
 最低の男云々は、この後、偶然からレコード店で再会する二人の間で再び繰り返される。

 主人公の青年が最低の男かどうかがここで問題なのではない。
ここまで云われても何ら抗弁しようとも思わない主人公の無気力さがよく理解できるのである。つまり、これは個人の性格の問題ではなくて、あの60年代と云う黄金時代を生き延びた青年に固有の無気力さが描かれているのである。青年の無力さを描く描き方に於いて、村上春樹はあの時代の雰囲気を実に的確に要約しえているのである。同時代を生きた批評家・川本三郎はいち早く同世代の共感を読みとることが出来た。

 ”鼠”と呼ばれる友人が、戦後社会の青年像の象徴であることは容易く見てとれる。”鼠”が類型的な描き方をされているのは、村上春樹と社会の関係の密度と正比例の関係にあるが、この場合は小説の欠点にはならない。”鼠”とは人間ではなく、時代の象徴性であるからだ。

 突き放した主人公の描き方は短編『中国行きのスローボート』などに於いても変わらない。この短編の中の二番目の挿話にアルバイトで知り合った中国系の女子学生が出て来る。アルバイトで手抜きをしないと云う点で主人公はシンパシーを抱くのだが、その真剣さが自分とは根本的に違っていることを感じる。つまり、彼女の真剣さは、そのことによってばらばらになりそうな自分自身を辛うじて束ねているかのような、切迫した雰囲気を感じるのである。
 そしてある日、主人公は彼女をダンスホールに誘う。自分なりに充実感を感じながら駅のプラットフォームで別れるのだが、少女が義理で誘ってくれたと観じ続けていたことに気付かなかった迂闊さに後で気づく、と云う結末である。二人の行き違いを言葉で説明し、再会を約して聴きだした少女の電話番語をかいたマッチ箱を空になった煙草の空き箱とともに投げ捨てて、その迂闊さに苦い思いをすると云うお話しである。
 つまり、この物語に於いても、潜在的な村上の優しさを偽善的行為として告発する苦さがこの小説を支えている。この小説を読み終って、『風の歌を聴け』の少女のように、「あなたって、最低ね!」と云う言葉が投げかけられていたとしても決して不自然ではない。
 つまり、主人公が誰にでも好かれるようには描かれていないのである。

 この二つの特質は、9ヶ月後に書かれた二番目の小説『1973年のピンボール』で姿を消す。つまり作家村上春樹が自分自身の特質に十分に自覚的ではあり得なかった、と云う事だろうか。
 その変質が最も特徴的に現れたのが三番目の『羊をめぐる冒険』である。

 これから書こうとするのは『羊をめぐる冒険』の文学論ではない。この小説をどのように読み解いたら良いのかと云う、その解明である。

  どこにでもあり得た戦後の青春像、その類型として”鼠”は造形化されていたのだが、本来「地」として描かれていたはずの副主人公が主人公の座に躍り出る。鼠とは元々人間ではなく、時代の類型なのであるから最初から「内容」を欠いている。内容を満たすためには作家の想像力で埋めるか「神話化」するかのいずれかである。

 ”鼠”の青春の挫折経験がどの程度であったかは、『風の歌を聴け』を読めばわかる。皆は時代の変化とともに変身したが、自分だけは元のまま取り残された、と云うものである。村上は、自分の座るべき椅子が無かったと云う椅子取りゲームに擬えているが、こんなことは誰でも云えることである。
 むしろ初期の村上の登場人物たちはよく「泣く」けれども、自分自身を「被害者」として描くような仕方は、少なくとも『風の歌を聴け』や『中国行きのスローボート』にはないものだった。
 
 神話化とは、例えば次の如くである。
 「羊」なる仮想の敵を相手に戦う、負の英雄としての”鼠”の人間造形である。鼠は相手に勝てないと分かった時、自分自身を犠牲にして「羊」をあるタイミングでのみ込む。つまり自爆することによって、「相撃ち」に持ち込もうとするのである。英雄として村上が描こうとしたのは明らかだろう。村上による鼠の神格化はこのようにして進行する。

 再会した主人公は鼠に言う。――君はもう死んでいるのだろう?
 
 何故、鼠は肉体的には死んでも魂は生きのびなければならなかった。その理由は先の述べた通りである。つまり「羊」と刺し違えるために、である。