アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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国民文学と云う選択肢 アリアドネ・アーカイブスより

国民文学と云う選択肢
2012-11-14 23:24:31
テーマ:文学と思想

・ 先日村上春樹ノーベル賞受賞云々が議論された時、今年が一番可能性としては高いだろうな、と思った。受賞を逸した時、日本の現状のためにいただきたかったと云う失望観と、それでも文学とは何かを問いうるような委員が未だ世界にはいるのか、と思って複雑な気持ちになった。

 実を言うとこの騒ぎが機縁になって村上のデビュー作『風の歌を聴け』を読んだ。舞台は70年代の初め、首都東京を遠く離れて、ひと夏の二週間を郷里の芦屋と思しきややハイカラな街と行きつけのバーで過ごした青年の物語である。

 初期の村上春樹の文学には、外見上の二つの特色があって、一つはアメリ現代文学に見られるようなハードな突き放した感覚で、カリフォルニアの空のようなからりとした風俗を描く点である。
 いま一つは、意外なことに、社会と云うか,浮世と云う表現の方が相応しいような娑婆で浮き沈みする、社会的弱者、小さき者の動態を描く村上の視点の温かさである。作家がエリートであることを意識しなくなってから久しいが、それでも生きる世界が狭められた分だけ自らを特権視して考えがちな戦後の世相の中にあって、これは珍らかな美質である。
 しかし意外なことに、社会的弱者に寄せる後者の見解は、主題的に言及されることは少なかったようである。むしろハイカラなポップの一種として、エルヴィスやビートルズや小物のブランド名とともに語られることが多かったようである。村上春樹の美質は正しく評価されてきたのか。

 『風の歌を聴け』で思いがけない成功をおさめ、ふと自分の周囲を見回した時、とりあえず彼には二つの世界が見えた。一つは、”鼠”と云われるある時点まで村上の自画像であり得た半身像や刹那的世界の中で浮き沈みを繰り返す四本指の少女、あるいは在日中国系の女子学生に代表される、声を出すこともなく社会変動の波間に姿を消して行った時代の青年像であった。
 いま一つは、黄金の60年代を特権的に語る、所謂「時間の重さ」にうんざりした70年代以降の大多数の世相であった。日本経済の成功とともにそこにリッチな自画像を映し出してみることにこの上ない満足を感じる人々がいた。村上春樹の国民作家としての変身は、実は60年代が提起した歴史的問題を、戦後の挫折物語と云ういう一般的な物語へと、歴史過程を自然過程へと還元する役割を果たすものだった。代表作『ノルウェイの森』の中で「ワタナベ君」の未来の恋人たる事を期待される緑と云う少女が、突然唐突に時代を総括する場面があるが、作者の感想を代弁していると考えて良いだろう。――曰く、昨日まで「造反有理」や「自己否定」を唱えていたものが抜け抜けと単位取得に狂奔するのはおかしいのではないか、と云うのである。要は、こう云うレベルの社会批評の妥当性を云々することが重要であるのではない。この段階で、『風の歌を聴け』の作者が、誰でも容易に云えることを、安々と主張している、ある種の安易さの中にこそにある。若き村上の固有さは何処に行ったのか。『風の歌を聴け』の弱者、小さきものに寄せる温かさ、作家としての固有さは何処に行ったか。批評以前に『ノルウェイの森』と云う作品は、村上の歴史経験が実際にはどの程度のものであったか、と云う見識を図らずも露呈する結果になってしまった。

 『風の歌を聴け』の”鼠”の類型的造形性は陳腐だけれどもそれはそれで良かったのである。村上春樹は鼠に代表される青春群像に敗者の「歌」をこそ聴いている。敗者とは、村上のまわりに当時何人もいた、具体的には四本指の少女であり、短編集『中国行きのスローボート』に描かれた様々の抽象の人間群像である。
 一方、国民作家として向き合うべき読者層を見まわしたとき、敗者への「追悼」は質的に意味を変えた。永遠の青春の蹉跌としての青年像である”鼠”は、ある段階で村上の自画像であることを止めて、悪と死闘を繰り広げた挙句、大多数の国民のために自己犠牲的に死んでいくヒーローとなるのである。『羊をめぐる冒険』とは、そのような小説である。ここで――

 鼠は何のために死んだか?、と云う設問をしてみようか。
 
 「君はもう死んでいるのだろう?」と”僕”に言われて、鼠は言う。

 「俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさや辛さも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。・・・・」(全集p336)

 つまり、そうしたごく普通の人が生き死にする世界のために死んでいきたいと云うのである。いわば時代の人柱として死んでいく鼠たちの群像は、『ノルウェイの森』の中で、もっと大規模に、国民的な規模で、自覚的に墜行されることになるだろう。

 描く対象と、それを受け入れる受容層の変化に応じて、作家の視点も微妙に変質していく。『風の歌を聴け』や短編集『中国行きのスローボート』の主人公は、村上の人柄の良さと云うか親切さが、優柔不断さとして、「男として、最低ね!」と二度に渡っても、言われてしまう。村上が最低の男だとは私は思わないだが、重要なのは、こう言われて一言も抗弁出来ない青年の無気力さが、実は村上の優柔不断さ、個人的な性格を超えて、あの60年代の青年像を正確に描き出している点である、他の如何なる作家も描き出せないほどの正確さと精密さで、象徴的に且つ典型的にあの時代の青年像を描き出している点である。

 『納屋を焼く』の中では、あの新宿騒乱の夜に放置しておくには忍びなくて、なんとなく面倒を見ていた少女がある日野良猫のようにいなくなり、失踪後部屋の後片付けをしていたら「厭な奴」と云う書置きを見出す、と云うお話しである。大事なのは、ここで主人公が如何なる感慨も抱かない点である。何らの感想なり見解を述べるのであればそのものは書くと云う行為の特権性に立脚した作為と云うものが前提にされなければならぬであろう。村上春樹は如何なる感慨も抱かないことによって、言葉と云う特権によって保護されていない庶民と同じレベルで生き死にしていたことが仄かな息遣いで分かる、そんな書き方なのである。
 
 『ノルウェイの森』の「ワタナベ君」が、出会うたびごとに他者に好感を持って受け入れられることの違いに注目してほしい。『ノルウェイの森』のプロトタイプをなす『蛍』と云う好篇があるが、同室者の描き方に於いて、二つの長編と短編との間には明瞭な差がある。後に”突撃隊”と綽名で呼ばれる酒盛りの話のネタにしかならない寡黙で不器用な田舎出の青年こそ、後年の村上文学からは見失われる、もの言わぬ小さき者の死だったのである。私も村上と同時代の人間だからよく分かる。変動の時代の波間に消えて行った青年の存在を私も知っている。

国民文学と云う選択肢は村上春樹の場合、単にメディアや大勢に迎合すると云うことだけではなかったであろう。期待されるならばそれに応えたいと思うのは誰しもだし、それに村上の生来の親切さと育ちの良さもあったであろう。彼は、普通に生きることの良さもまた知っていたのである。そうした並みの世界を生活者を守るために、”鼠”のような「青春の蹉跌」型の青年が、悪と戦うヒーローに変容しなければならなかったのである。

 では村上の変質、国民作家への変貌はどの段階で生じたか。『1973年のピンボール』を書くまでの9カ月にある。ここでは小さき者たちは、208、209と云う記号で呼ばれる存在にまで陥しめられてしまう。性差と個性を剥奪された存在、内容を排除されたことが、ハードでありクールでありモダーンであると感じる平成の美意識が誕生する。

 村上の初期の作品に夥しく蠢いていた敗者、小さき者は、波間に消えるか、無視されるか、あるいは直子やツヅキ君のように、自殺願望の高い人間へと鋳直し造り直されて行くのである。

 国民文学とは、文化的あるいは経済的国家繁栄の中に満足を見出す国民の自画像である。21世紀に入って不透明さを増す国際的環境の中にあって国家のアイデンティティを見失いがちな段階にある今日に於いて、村上春樹の読者は何処に行こうとしているのであろうか。