アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ルイ・マルの『死刑台のエレベーター』 アリアドネ・アーカイブスより

ルイ・マルの『死刑台のエレベーター
2012-11-17 22:51:17
テーマ:映画と演劇


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・ マイルス・デーヴィスの音楽、そして夜の町を彷徨するジャンヌ・モローの情感を欠いた無機的な映像、映像とモダンジャズのコラボレーション、これがこの映画の魅力である。

 しかし、映像が造られた当時の熱狂は遠く伝わってくるものの、こんにち改めてこの映像に接すると、別様の感慨を抱いてしまう。
 物語は1950年代の後半、戦後とは云っても、戦争の記憶を遠く引きずった、戦後が遠ざかりつつある時代の物語である。お金持ちの政商とも云うべき老人がいて、彼には若すぎる妻がいて、その妻と愛人が示し合わせて夫を殺害する。完全犯罪を意図するのだが、図らずも奇妙な偶然の重なりあいのゆえに、露見する。悪人は罰を受け、目出度し目出度し!

 今日から見て特異に感じるのは、登場人物たちが何らかの形で軍需産業に関わっているらしいいことである。主人公は元アルジェリア戦争の英雄で落下傘部隊に属していたと云う事が何度か語られる。その彼がいまは履歴を利用して軍需産業のボスの配下にあって商談の交渉役のようなことをしているらしい。その彼がボスの妻と示し合わせてボスを殺す。

 その殺し方も発想も稚拙で幼稚なものがある。犯行現場には外部の窓を使う事にし電話係をアリバイ役に部屋に仕立てる処までは良いのだが、外部の手摺に侵入した時のロープを忘れてしまう。
 首尾よく犯行を果たしたので車で愛人の処に行こうとして車のキーを入れると、何とビルの窓に自分が伝い登ったあのロープがぶら下がっているではないか。車のエンジンは入れたままにして慌ててロープを回収しようとしてビル内のエレベーターに飛び込んだのはよいが、退館時間を過ぎたビルは警備員によるて電源が切られて、主人公はエレベーターの籠の中に宙吊りになってしまう。こうして、夜通し如何にしてこの苦境を脱するかと云う工作人めいた涙ぐましい努力が続くのだが、外では車を止めた花屋の女店員と若者が勝手に車を運転して郊外にドライブに行ってしまう。この車の中には、あとで判明するように犯行に使った拳銃と、その頃はステイタスシンボルであった小型カメラがポケットに投げ込まれている。このカメラに二人の逢引きの様子が克明に記録されていて、後で大きくものを言う。
 車を盗んでドライブする二人の恋人たちは無謀な高速道路での折り返し運転に退屈した挙句、後ろからクラクションを鳴らされたドイツ製のメルセデスベンツの車と路上のデッドヒートを演じる。メルセデスを追いぬけないままハイウェイを降りて、ドイツ車の行くままそのまま、当時は真新しかったモーテルに滑り込む。フランスの若者は腹いせに二大の車が停車する時わざと追突し、メルセデスをへこませるが、乗っていたドイツ人と思しき身なりのきちんとした老人とその美人の妻は鷹揚に怒る様子もない。
 さて、その夜は老人と美人の妻の申し出でシャンペンで何事かの祝い事の誘いを受ける。実際は、富とステイタスを見せつけるための示威行為なのだが、表面は奇妙なぐらいに慇懃である。葉巻を薦められて何度も咳き込む。それを見てドイツ人は見下すように笑う。お互いの戦争体験が語られる。若者はインドシナにおける戦争体験を語る。ドイツ人も語るが先の大戦に比べたら児戯のようだと、言葉には出さないが、言わんばかりである。
 夜が明けようとするころ、二人の恋人はモーテルを脱出しようとする。腹いせのために、車を取換えてエンジンを掛けようとするのだが、慣れない高級車なのでスムーズにいかず、眼を覚まして起きてきたドイツ人の老人に見つかり拳銃を突きつけられる。近づいてくる相手に恐怖心から、車の中で犯行に使われた拳銃をポケットんの中に入れているのに気づいて発射してしまう。遅れて起きだしてきた美人の妻も殺してしまう。
 主人公の、昔のアルジェリア戦争の英雄がエレベーターの籠の中で悪戦苦闘している頃、外ではこうした偶然が偶然に重なり合う、まるでピンポン玉のような出会いがしらの、無機的な事件が展開していたのである。そして同じころ、あのボスの妻は、落ち合う事になっていた恋人を探して夜のパリの町のバーからカフェへ彷徨い、挙句は売春婦と間違えられて一斉検挙の網にかかってそのまま警察署に連行されて尋問を受ける。
 ここでは、警察署の係官が、その売春婦と思って検挙したその妻が、実は正経済界のボスの妻であることを知って、手のひらを返すように対応が一変し、無罪放免となる場面が如何にも戦後の風景として描かれている。
 夜が明けて館内の電源が点灯され、そしてエレベータの―の作動も可能になったことを知ると、ようやく主人公は無為なひと夜の宿りから解放されて外に出る。ドジなのはそのままカフェに行って、空腹をしのごうとパンとコーヒーを飲んでいるうちに、朝刊のトップに張り出された彼の顔写真は既にパリの有名人になっている。そのことを知ってか知らずかのんびりとパンを食べる処がユーモラスである。
 元々遣ることなすこと幼稚で思慮と云うものが全く見られない。政治の英雄と云うものが、一旦岡に上がった魚のように成す術が無いのである。一方、今度の計画に元々乗り気でなかった愛人の尻をたたき続けた妻の最大の誤算は、職業人としてだけでなく何事をなすにも無能の典型のような男を愛人に選んだと云う点である。旦那を殺して愛人と一緒になると云う安物のスリラーじみた発想は、映画?ならともかく、戦争と云う非日常の中でなら可能に思える出来事であったかもしれない。つまり、主人公が戦後と云う平和の中に適応できなかった人間であるように、妻の発想も戦後の相対的な安定期の中では時代遅れの投機的な発想なのである。そして二人に殺されるボスもまた、政商と云う、戦後がまだ真の安定性を欠いた、束の間の過渡期にだけ生きることが出来た、古いタイプの人間像なのである。また、二人の若い恋人に殺されるドイツ人の夫妻にしても、軍需産業の影が濃厚に感じられて、ビジネス姿の旅行等通常の旅ではないことは分かる。つまり『死刑台のエレベーター』と云う映画は、今日から見ると、戦後の数年間と云う、戦後の時間が安定を得るまでの束の間の時代を生きた、自分たちの席が用意されていない者同士のドラマだと見ることも可能なのである。

 結局事件が露見し、決着を見るのは、現像に出された写真機からであった。ドイツ人夫妻を殺害した二人の恋人たちは、死刑を覚悟していたのに、新聞を読んで自分たちの代わりに逮捕されたあの「死刑台のエレベーター」の住人の顔写真が載った新聞を読んで、助かったと勘違いし、現像所にフィルムを取りに行ったところで、御用となる。写真には、あのモーテルの夜ふざけて取った記念写真のようなものの中に殺されたドイツ人夫妻と彼らの姿が明瞭に映っているんだが、愛人と妻の古い映像も残っていた。二人を追いかけて来た妻もまた、現像所の水槽の中で浮き出して来る写真を観せられて、一切が露見する。そこには愛人と睦みあう写真が何枚も残されていた。
 要するに、どいつもこいつも、用意周到とは云いかねる単慮に走る連中ばかりで、こういう可愛らしさではこの後に続き時代を生きていけなかっただろうな、と考えさせる映画なのである。

 映画が終わると、後ろの方で、「ジャンヌ・モローよ}とか「モーリス・ロネだったわね」とか話し声が聞こえる。「・・・半世紀以上も経ったのだわ」とか。やはり満員の映画室には、この映画を劇場で見た現役世代が駈けつけたのだろう。一世を風靡したジャンヌ・モロー!彼女の無機的な表情のアップをしみじみと見ながら、過ぎ去った時間について考えた。