アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と言葉の感受性・上 アリアドネ・アーカイブスより

村上春樹世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と言葉の感受性・上
2012-11-27 15:30:33
テーマ:文学と思想

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・ この小説は村上春樹の四番目の長編小説とされている。デビュー作『風の歌を聴け』のフラグメントの集積のような鋭い文体、それと対極にある『ノルウェイの森』の万人向けの人工甘味料めいた通俗的な文体、『羊をめぐる冒険』の幻想的な文体、そこに本作の象徴的で知的な文体を加えて、結果として得られた文学の質の問題は別としても、多様な文体を駆使する自在な語りの雄弁な姿勢に、村上春樹と云う男にある種の才能を認めないわけにはいかないだろう。
 村上春樹の不思議さは、人間としては凡庸なのに、描かれた作品は凡庸とばかりは言えない、と云う点にある。つまり、人間として付き合うにはワオタク的素養を突出させる諸所作は気障で紋切り型の退屈は感じても、描かれた小説的な世界は必ずしもそうとも云えない、かかる不思議さと曖昧さとが付きまとうのが清濁併せ飲む村上春樹の不思議な魅力なのである。

 本作は、「世界の終わり」と云う寓話と「ハードボイルド・ワンダーランド」(――以下、「ワンダーランド」と略記)と云う中高校生向きのファンタジー小説の同時進行と云う形を取っている。「世界の終わり」とは、塔のある厚い壁に閉ざされた町の物語。ここでは人は「心」を失っていおり、「心」は城外に飼育されている「一角獣」と云う伝説の生き物によって吸い出され、一角獣はその吸い込んだ「心」の重みに耐えかねて屋外で倒れて行く。物語は、主人公の「僕」がカフカの「城」のようなこの町に着いて暫くたったところから始まる。
 一方「ハードボイルド・ワンダーランド」は渋谷区の地下鉄日比谷延線あたりにある地底の不思議の国と、80年代の「私」と云う三十男の話である。「私」は村上のほかの小説のように離婚歴があり、計算士と云う半民半官の国家機密に関わる仕事をしており、その秘密のプロジェクトに巻き込まれて、ちょうどオルフェウスイザナギイザナミの冥府下りの物語のように、二つの世界を上下し、謎の中で出口もなく死んでいく、と云うファンタジー物語である。

 二つの物語が併走するが、どちらかと云えば「ワンダーランド」に重点がある。主人公の僕は「冥界」の「博士」なる人物に会う事によって、どうやら自分の脳の中に何かが埋め込まれたことを教えられる。
 ここで簡単にユング心理学の自我の構造をおさらいしておくと、表層に自我と云うものがあり、その裏面が無意識である。ユング心理学の特徴は無意識の遥か彼方に集合的無意識を想定し、自己意識であるけれども自我や自意識、個人的無意識を超えた領域を、「自己」と呼んでいる。自己とは超個人的な意識と考えて良い。意識的存在や実在と云うよりも存在の形を超えた、概念や構造と云う、存在をして存在をあらしめる形相としての側面を感じる。
 「ワンダーランド」で博士が企んだ、「私」の能に植え付けた工作とは、ユング的「自己」の世界を、世界に現前させると云う大胆な試みなのである。しかし博士によって自己の現前を植え付けられた26人の被験者たちは何らかの共通の病と症状によって死んでいき、何ゆえか「私」だけが残る。なにゆえにか生存の方に針が振れた「私」の存在は、国家プロジェクトに取っては今後実験を継続するうえでも貴重な「資産」なのである。こうして「ワンダーランド」の「私」をめぐるドタバタ劇が始まるのである。

 つまりこの小説を読み終わってみれば「ワンダーランド」の「私」の自己――第三局的世界とは、「心」が死に絶えた「永遠の現在」としての時間のない「世界の終りの」風景であった、と云うのが村上の本作の着想である。
 おまけに「私」が博士から告げられるのは、自分が手術に些細なミスをしたためにあと何十時間か後に、「私」の意識はこの世から消滅すると云う冷酷な宣言でもあった。つまり意識がこの世から消滅するとは、「世界の終り」の風景であるから、二つの世界は通底し収支決算は首尾一貫する。

 この長大なカフカ的寓意の物語と中高校生向きのファンタジーは、途中の紆余曲折を端折れば、以下のように終わる。
 「ワンダーランド」の「私」は、不治の病に冒された人のように、この世のささやかな営みが奇跡のような輝きを持って演じられる、いわゆる「末期の眼」というものである、

「私が次にどこの世界に行くかなんて、そんなことはどうでもいいことなのだ。私の人生の輝きの93パーセントが前半の三十五年間で使い果されてしまっていたとしても、それでもかまわない。私はその7パーセントを大事に抱えたままこの世界のなりたち方をどこまでも眺めていたいのだ」
「私はこのねじまがったままの人生を置いて消滅してしまいたくはなかった。私には最後まで見届ける義務があるのだ。そうしなければ私は私自身に対する公正さを失ってしまう事になる」(新潮社新装版p605)

 つまり人生の神秘は「ワンダーランド」などにあるのではなく、この世の、例えば末期の眼で見た、日比谷公園で遊ぶ親子の姿にあった、と云う事なのだろう、たぶん?(村上春樹流に云えば)!!!
 つまりファンタジーを目指しながらお伽噺には成っていないのである。「責任」とか「公正」さとか、村上ワールドでは禁句の言葉が多用されているのに注目していただきたい。

 もう一つの「世界の終わり」の方はどうか。
 「僕」から分離された「影」は死期が来るのを待っているだけの生活である。なぜならこの世界では「影」が完全に死に切れることにおいて「人間」(――美的感性等を欠いた、単なる労働生産-消費過程としての人間、つまり高度資本主義や官僚主義社会の極限態としての在り様が象徴されている――)としては完成するからである。完全には影を分離しえなかった例として、親しくなった図書館の娘の追放された母親や、城外に出された今は発電所に勤務する不思議な青年や、城壁の外に広がる広大な森の世界によって「世界の終わり」にとってのこの世ならぬ世界が暗示されている。
 「僕」の影としては、自分が退化消滅する前に、決死の脱出劇を目論んでいる。これに呼応するように「僕」も脱出劇に参画する。その為に、この実用的な日常品以外は存在しない「世界の終わり」の世界に楽器を通して音楽を、――つまり労働生産-消費過程とは別の基準の価値?を見出す。音符の連なりが遠い記憶としての「ダニーボーイ」を思い出させ、不可能かもしれないけれども愛し始めた図書係の少女にも心の恢復が望めるのかもしれない。
 こうして「僕」は最後の出口で、「影」とは離別し、「世界の終わり」の世界に留まると云う何とも不可解な決意をする。そこのところはこうである。――

”「僕はここに残ろうと思うんだ」と僕は言った。
 影はまるで焦点を失ったようにぼんやりと僕の顔を見ていた。
「よく考えたことなんだ」と僕は影に言った。「君には悪いけど、僕は僕なりにずいぶん考えたんだ。一人でここに残るということがどういうことなのかもよくわかっている。君の言うように、我々二人が一緒に古い世界に戻ることが物事の筋だということもよくわかる。それが僕にとって真実だし、そこから逃げることが間違った選択だどいうこともよくわかっている。しかし僕にはここを去るわけにはいかないんだ。」(新潮社新装版p615 )
「僕はこの街を作りだしたのがいったい何ものかということを発見したんだ。だから僕はここに残る義務があり、責任があるんだ。君はこの街を作りだしたのが何ものなのかしりたくないのか?」”(同P616 )

 つまり「この世の終わり」と云う世界は、逃れようもない「僕自身であった」という身も蓋もないどんでん返しがこの小説の最後に用意されているのである。
 ここでも「義務」とか「責任」とかの、通常の村上ワールドでは禁句とされて言葉が出て来る。勿論、この言葉は村上の小説の中で効果をあげているけれども、言葉に対する「誤用」ということはないのであろうか。誤用?と云うよりも、言葉の用い方についてのルール違反、感性の誤解のようなものを感じる。

 ともあれ、村上がこの小説の結末にあえて描かなかった近未来の展開を私なりに整理すれば次のようになる。

1、 「私」は「ぼんやりとした色の不透明なカーテン」が「意識を覆う」(p613 )つまり「私」に永遠の「眠りがやって」(P613 )来る。つまりワンダーランドの「私」には死が訪れたと考えて良い。

2. 「僕」は「影」と別れ、図書館に引き返す。そして運が良ければ二人は「森」に脱出を試みるだろう。この結末は、「色」の発見と云う寓意を解く、アメリカの児童文学の傑作『ザ・ギバー』最後の雪の山越えの場面を思い出させる。

3. 一方、唯一の脱出口である「南のたまり」の青緑色の淵に飛び込んだ「影」はどうなったか。本体の「影」を本来受け止めるべき、この世の「私」が晴海の埠頭に横付けした車の中で死に掛かっているのだから、「影」の乾坤一擲とも云える直球は、キャッチャーのいないど真ん中のストレートのように、極空の中に虚しく消えるほかはないであろう。駅伝に例えれば、繋ぐべき襷を渡すべき存在は不在であった、と云う事だろう。

4. 「世界の終わり」と云う世界を脱出する「僕」も図書館の女の子も、そして影も、所詮は「ワンダーランド」の私の意識の核に埋め込まれた世界に他ならないのであるとすれば、登場人物たちの、命がけの、一切の営為は、空無に化す、と云うことだろうか。

 次に、「世界の終わり」と「ワンダーランド」と云う、二つの世界の関係なのだが、当然、博士にあって後の「地上」を目指す「太った女」との逃避と脱出行と云う顕界(この世)での努力が、密界である「世界の終わり」と人物たちの人間的営為にどのような影響を与えたか、と云う肝心な点がどうも説得的に描かれていない。
 密界(冥界)における「僕」の、音階によるメロディの発見が、この世である顕界のどのような影響を与えたのか、そこが当然描かれてしかるべきなのに、なにゆえか登場人物たちは二つの世界の相互性について無関心である。
 手元に与えられている条件だけで考えてみても、密界脱出劇における「僕」の最終的な挫折が、反作用として、顕界における「私」の孤立無援な状況を帰結する筈なのであるが、この二つの世界の事象の時間的前後関係が逆に描かれている。冥界における「僕」の選択は、顕界の「私」のやみろくや記号士たちとの戦いにも影響を与えるはずだ。「僕」が「責任」を云々するのであるならば、この両世界の関係について云々すべきであったのであるが、全く並立したまま言及がなされないと云うことは、作者にも本当は良く解っていないということだろうか。

 つまり、この小説の村上が与えた結末の諸前提から、書かれなかった結論を整理すれば、以上のような顛末、極めて首尾一貫しない話になってしまうのである。

 最後に、人間の悩みや苦しみを一杯に吸い込んで、その重さに堪えかねて死んでいく「一角獣」とは何の象徴であろうか。
 城壁に囲まれたあらゆる悩みから解放された世界とは、こうした罪なき生物の贖いの上に成立しているものだとすれば、それは村上の表現を借りれば「高度資本主義社会」(『ダンス・ダンス・ダンス』)を底辺で支える、小さき者たちの存在のなれの果てだと考えることはできるだろう。
 村上の想像力に欠けているのは、この罪なき生物・「一角獣」がある面では犠牲の「羊」であり、『羊をめぐる冒険』の「羊」とは、犠牲の生贄としての役割だけではなかった筈だ。明治以降我が国に流入してきたものの考え方、つまり羊=キリスト教を根底に置く西欧文明の「狂気」の場面をも象徴していた筈だ。人類が、西洋文明と出会うことは果たして人類全体にとって幸せであったかと云う根源的な問いが問われていた筈である。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』には『羊をめぐる冒険』のアンビヴァレンス、イロニーが抜け落ちている。