アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と言葉の感受性・下 アリアドネ・アーカイブスより

村上春樹世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と言葉の感受性・下
2012-11-28 11:03:52
テーマ:文学と思想

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 同様に『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の主人公は、自らの決断として「公正」や「義務」や「責任」について語ろうとする。自らが行為を選び言葉を選択するとは、言葉によって保護された自らの特権性に対して無自覚であると云うことである。凡そ、歴史や現代に就いて語ろうとする者は言語批判が必要だが、村上にはその能力が欠けている。

 ここで用いている「言語批判」とは、例えば次のようなことを意味する。
 『風の歌を聴け』や『中国行きのスローボート』の、言葉を無くした、と云うか言葉を語りえない物語の語り手や、中国系の女子大生、そして『蛍』などの初期短編に描かれた多くの変動の時代の波間に消えて行った「小さき者の死」から、如何に村上が遠くまで来てしまったかを語るものだろう。何時の世も庶民とか民衆と云うものは言葉と云うものを持たなかった。言語を用いるものは権力者の側だったし、例え反体制、あるいは世を捨てた隠者の如きものであっても言語を用いると云うことに於いての特権性と云うものはあった筈なのである。
 人は、言語と云う手段を用いて多様に語り得るし、如何なる空想、如何なる言説を語ることも可能である。例えば村上春樹が言語を用いた小説と云う手段で「高度管理社会」なり「高度資本主義」について「批判的に」語ることも可能だし、何を語ろうとそれは言葉を用いるものの自由な行為なのである。しかしかかる恣意的な「自由さ」と、言語批判の特権性から自由であるということの違いに無自覚であってはならないのである。
 初期の頃の村上は自らの天性に添って無意識のうちに「言語批判」を作品世界に内在させていた。しかしプロの作家としての意識するようになると、「知識」がパターン化された認識を与え描かれた世界を平板化させたようである。村上ワールドの魅力ともされている現実を語るときの「ズレ」、――物事を聞かれれば「たぶんね」とか「僕の感知する問題ではない」と云う課題の中心点から「ズラ」せて語る姿勢は、村上が任意に選び得た主体的選択の結果ではないし、村上の強さ、物事をハードでもニヒルにでもまた客観的に見ているからでもない。現実に向き合う姿勢が、そのまま主人公たちの決まって受動的な性格として造形するあり方が、言語批判と云う大きな歴史性の枠と云うかパラダイムの枠、村上の言語の質を規定していると云う点に、無自覚なのである。

 ついでに言うと、この小説の中で、ワンダーランド博士の前に26人の被験者が選ばれるのだが、25人が死亡し、「私」のみが残る。この理由についてワンダーランド博士がめぐらす想像は、「私」の思考回路と感受性が、情報を受けとる村上固有の「ズラシ」にあると云うのだが。あの「たぶん」とか「少しはね」と云う書き方なのであるが。つまり自分自身の思念と存在の不一致が幸いした、と云うのだが、どうだろうか。
 むしろ村上春樹の文体として称賛されてきた”ズレ”や存在と思念の不一致は、目に見えぬ管理社会の超言語的な操作力に対して無能なのではないのか。『ノルウェイの森』などに見られる世相への迎合性を見るが良い。『羊をめぐる冒険』で折角”羊なるもの”の陰影に着目しても、その象徴的な隠喩を取り違えてしまう。『羊をめぐる冒険』の中で一番すぐれている場面は、北海道における山奥の開拓史を描いた場面なのである。地域の畜産農と云う小場面を描いて近代国家と個人の関係を巧みに象徴的に描いて、まるで有島武雄の『カインの末裔』にも似た雄渾な叙事詩的表現に達している。『風の歌を聴け』はどうなのか。何時の時代も淘汰される側は無言なのである。歴史の波間に消えた声なき声を、60年代を風靡した特殊な文化である「深夜放送DJ」と云う形式の基に描いた、言葉が特権化される以前の等身大の、60年代のマイムなのである。
 

 村上春樹は、小説は上手いのだが、言葉の感受性がどうも、と私などは思うのだが。