アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』第一部・第二部を読む アリアドネ・アーカイブスより

村上春樹ねじまき鳥クロニクル』第一部・第二部を読む
2012-11-30 00:08:52
テーマ:文学と思想

http://yoshibook.com/blog/photo/2006-08-16.jpg


・ 主人公は村上の他の作品にも出て来る離婚歴の中年男である。村上が多彩にして多様な文体を駆使する巧みな物語作者であることは既に書いたが、ここではノモンハン事件等への言及を通じて、歴史的現実への参画と俯瞰的な遠望を秘めている。現代史における善と悪の問題等と並んで村上の物語的世界としての試みが成功しているか否かはここでは語らないことにする。
 ここでは村上をどう評価するかではなく、とりあえずは彼の声に耳を傾けたい。出来れば彼が混乱して語っていることを腑わけして明示し、本来彼が明らかにしたいテーマに少しでも接近して見たい。

 さて、主人公は『ダンス・ダンス・ダンス』にも登場する離婚歴のある男である。妻と猫が前後して不可解な失踪を遂げる、しかしそのことが深刻な影響を与えたようには見えない、少なくとも前作までの村上の語り口はそうである。語りのクールでハードな感じがとても一見モダーンに見えて、それが村上ワールドの語り口として称賛されて来もしたのである。
 しかし本当のところは、『ねじまき鳥クロニクル』とはどう云う物語なのであるか。

 小説を読み始めて最初に気づくのは、この作から村上の文体が少し変化している、と云うことである。つまり、外見上の相違に関わらず本作品の伝える文体はデビュー作『風の歌を聴け』に近い。『風の歌を聴け』の主人公は、自分の行為に自信が持てず、それが誤解されても一切抗弁しない青年として描かれていた。このもの言わぬ青年像が60年代末期の固有な時代像であり、時代に淘汰さるべき存在する「小さき者」たちの群像であることは指摘して置いた。こうした、他の作家が誰もが成しえないような形で言葉を失った小さき者たちの死を歌うことに於いて『風の歌を聴け』は優れた同時代評となりえていたのである。村上がこうした作家的美質を見失い、正反対の作品を書いたのが実は『ノルウェイの森』である。

 本作は、そう言う意味では、今一度『風の歌を聴け』や初期短編集『中国行きのスローボート』の世界に回帰し、初期のテーマを救いあげようとした試み、と見ることが出来る。つまり60年代の生贄として葬り去った『ノルウェイの森』等の連作に見られる鎮魂歌としての妥当性を、改めて見直してみようとした作品なのである。

 村上春樹は、多くの出来事や事象を整理しないまま小説を書く癖があるので、支離滅裂になりがちなドラマを整理すると云う意味で、登場人物たちの整理を、一応しておこう。

 岡田亨:大学卒業後も定職に就かず、アルバイトのようにして勤めていた法律事務所も止めて、弁護士資格の夢も遠のき、今は小出版社に勤める
妻との間で、生計手段と家事との関係が逆転している。仕事や学歴だけではなくあらゆる夢も希望もないフリーターの状態に置かれているが、正義や倫理観は意外と健全であり、妻と二人で築いたささやかな平和を必死に守ろうとしている。最終的に主人公をどん底に突き落とすのは、妻が密かに別の男と不貞を働いていたことを告白されるくだりである。しかし主人公は、こうした自分が陥った困難な状況に対しても誰を責めるわけではなく、何時も自分が悪いと思ってしまう。人を責めることが苦手な人物として描かれている。

 その妻・岡田クミ子(旧姓綿谷):旧家にありがちな祖母と父母の世界の軋轢から、身代わりのように一時祖母に育てられる。その後遺症が、父母の基に引き取られても家庭に馴染めず、家族経験の不全性を背負ったまま成長する。唯一の理解者であった姉とは幼少の頃死別する。

 綿谷昇:東大卒の有名人。 悪なるものの象徴として描かれる。

 加納マルタ:予知能力を持つ謎の女性。失踪した猫の捜索を依頼したことから主人公との交流が生じる。マルタとは、実は「水」に由縁を持つ霊界の女神であり、マルタ島での霊水との出会いに決定的な啓示を受ける。

 加納クレタ:その妹。60年代の時代遅れのファッションに身を包んで登場するが、身体的特徴等に妻のクミ子の面影が感じられる。自殺願望がある。

 笠原メイ:近所の「幽霊屋敷」の隣に住む少女。ボーイフレンドと起こした交通事故の結果不登校になった女子高生。後に、バイク運転中に自分でも分からぬ無意識の殺意によってボーイフレンドを殺したことを主人公に告白する。また、井戸に降りた主人公の縄梯子を引き上げて、どのようにして人は死んでいくのかを観察したいなどと、半分冗談のように語る、怖い側面もある。最後に、主人公の生き方に啓発を受けて、日常生活へ復帰する。

 電話口の謎の女:小説の冒頭からしつこくテレフォンセックスまがいの電話を掛けて来る謎の女性。主人公が良く知っている存在である、と謎めいたことを云う。

 さて、この謎の女性は第二部の終わりで、実はクミ子であったことが明らかにされる。
 加納クレタとクミ子の関係も、同身双頭の関係であり、霊界(冥界)における存在と顕界(現世)における存在と理解すれば解りやすい。加納クミ子は自分自身を失った存在であり、綿谷昇との不思議な性の儀式によってショック療法のように生きていると云う現実感に初めて目覚める。それは再生の儀式であると同時に、悪の権化である綿谷昇の負の「けがれ」の洗礼を受けることでもあった。
 二人が出会わざるべき「悪」の場所、高層ホテルの一室で出会うのは何ゆえか「208」号室である。クミ子が208なら、クレタは209である。『1973年のピンボール』の双子の娼婦208、209の系譜を継ぐものであることが暗示される。
 この二人の関係は、顕界と霊界の関係でもある、一方が霊界に居る時は他方は顕界に居る。クレタが自身を喪失しリアリティを無くした時彼女は霊界に生きていたのであり、その頃クミ子は岡田亨とのささやかな家庭生活を夢見ていた。クミ子が猫と前後してこの世から失踪すると、クレタは現実の女として主人公の前に現れる。また、主人公を救おうとしてクレタへの旅を提案する。
 つまり本作では、『風の歌を聴け』以降、見捨てられた「小さき者」たちの復権と云う側面を秘めている。

 結局主人公は、クレタの申し出を断って、良くても悪くても、矛盾に満ちた「現在」に留まることを選択する。つまり具体的な行為としては、失踪した妻の帰りを待つこと、それが唯一の自分にできる行為であると了解する。妻の失踪の謎を解くことがこそ、実はこの世のなりたちの謎に迫ることであり、この世をさり気なく背後で動かしているねじまき鳥のミステリーに挑戦することなのである。
 この結論は、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と実は同じである。
 ただこの作品では、前作のように「公正」・「正義」・「責任」と云う言葉は使われない。主人公が言語と云う特権性を選択しない、声なき声の持ち主であるからにほかならぬ。
 これは中期のこの作の大きな特徴と考えて良い。

 本作品の主人公は、村上の小説の中では一番カフカの主人公に似ている。
 笠原メイは主人公を評して言う。――

”「・・・あなた自身はすごくマトモなのに、実際はものすごくマトモじゃないことをしているし・・・」
「あんたのことをみていると、まるであなたが私のために一生懸命何かと闘ってくれているんじゃないかという気がすることがときどきあるの。・・・私はそういうあなたを見ていると、ときどきキツくなるの。・・・」”(P534-535)

 つまり勤勉で、まめで几帳面で、料理と掃除が上手で、その上健全な倫理観を持つ、この平凡人が、なにゆえか不条理な事態に引きこまれて行く。主人公が懸命に、健全な家庭生活を守ろうとすればするほど、その努力はチャプリンの映画のように報われることなく、挙句には間男されていたと云う事実が明らかにされ、泣き笑いの悲喜劇的結末が待っている。
 しかしこうした不運、不合理、不条理にもかかわらず、岡田亨と云う平凡人は健気で決して笑わない。決して笑わないと云う人物設定、そこが彼を取り巻く外部の人間の眼には滑稽にも、こころが痛くなるほどの哀しみの感情とも共存しえるのである。

 誰でもでありえて誰でもでない大平凡人としての岡田亨。もう一人のエブリーマンとしての「ワタナベ君」、同じ大平凡人でも如何にに違った存在であるか。
 変わったのは、作家の視点なのである。