アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『ねじまき鳥クロニクル』とはどういう小説か? 村上春樹への期待 アリアドネ・アーカイブスより

ねじまき鳥クロニクル』とはどういう小説か? 村上春樹への期待
2012-11-30 10:51:13
テーマ:文学と思想

・ 本作を読んで最初に感じるのは、文体の変化である。
 文体の変化は、村上小説の主人公の設定、人物造形の輪郭を変える。妻が失踪したこと、それと前後して猫もいなくなったこと、これは連作に共通する要素である。違うのは従来の主人公たちが自身に起きた事件について、特に関心を引かない事象、と云うポーズをとるのに対して、本作では哀しいまでに疑心暗鬼に陥る、と云う場面の記述が全編を通してが延々と続く。従来の諸作では淡々と気楽になった独身生活を謳歌するかのごとくであるが、本作では妻の失踪の前後における、主人公の涙ぐましいまでの奮闘、奮戦、家事や生活雑時の具体的で詳細に渡る記述が続く。生活者としての適度の正義感と倫理観を持ち、几帳面で規則正しい生活を愛し、どうやらこの作では禁煙も始めたらしい。生活態度が変わるに応じて、「たぶん」とか「すこしはね」と云った投げやりの、従来の村上春樹節は影を潜める。何やらチャプリン無声映画じみた必死さが伝わって来て、滑稽であるけれども本当は哀しいと云う、泣き笑いの表現を獲得している。これは従来にない、村上文学における大きな変化であると考えて良い。

 村上小説の主人公は、煙草を止めただけでなく、酒も飲まなくなる、少なくとも浴びるほどは飲まなくなる。行きずりの素敵な女性に出会うと何やらもっともらしい理由を付けて決まって自らの好色をカムフラージュするのだが、読者の関心は主人公がいつ女を「ものにする」のだろう、と云う解りきった低級な関心で読者を惹きつけると云う書き方をこの作ではしていない。これも村上春樹の女性観の大きな変化である。
 この小説では、冒頭に登場する謎の電話の女、加納マルタとクレタの姉妹は性的な興味を惹く対象として描かれているが、実際には謎の電話の女は妻のクミ子であり、加納クレタは妻の分身である。主人公がクレタと幾度か意識と無意識の境で性体験を得るのは、実際は二人が同一人物の二つの側面であるからにほかならない。村上春樹の物語世界は、顕界と密界と云う二つの世界に渡るが、事実この二人のヒロインは二つの世界を行き来し、同一の世界に同時に存在することはない、なぜなら二人は双子と云うよりは、シャム双生児のように、同一の身体から生まれた二つの表情であるからだ。
 また、加納マルタとは誰だろうか。霊的の能力に於いて卓越し、何かと妹の面倒を見る姉であると同時に母でもあるような存在、この女性がクミ子が幼年の頃死別したと伝えられる綿谷久美子の姉の生まれ変わりであることは明らかだろう。

 『ねじまき鳥クロニクル』は、物語的世界の中でも言及されるように、主人公が多くの女性の脇役に取り囲まれる作品である。パラダイスのようでもあるけれども、女性との出会いと失踪や別れを繰り返す度毎に主人公が陥し入れられていく不条理なフランツ・カフカ的な状況を考えると、アンチパラダイスと云ってもよいほどだ。
 それで、例外的に出て来る男性の人物が、「悪役」綿谷昇である。普通ならどのように悪いかを書くのだが、「悪役」とだけある。作者がそう言うのだからそうなんだろうな、と思って読むしかない書き方である。この「悪」とノモンハン事件がどう繋がるのか、この「悪」と日本の政財界の悪がどう繋がるのか、そこまでは書かれていない。また、この「悪」は『ダンス・ダンス・ダンス』の五反田君にも繋がるものである。村上春樹は明示的には書いていないけれども五反田君は猟奇的な殺人犯だった。悔悛の見込みのない不治の病に侵された「悪」なのである。綿谷昇には、そうした悪のアンビヴァレンス、イロニー、都会風のインテリジェンスが抜けている。東大卒と云う設定だけでは、苦しい。
 こうして「悪」と闘くと云う空虚な、善悪の二元論的な設定だけが残る。本作は基本的には児童文学的な設定であると云って良い。違うのはラブシーンと性描写があり、ませた子供が読むファンタジーと云う趣である。文学的な修練に堪えた読者が読むに堪えるものになっているのか。

 笠原メイなど、部分的に興味深い人物造形もあるけれども、全体的には未整理で乱雑な物語設定と人物の組み合わせであと云う印象をぬぐえない。
 村上春樹の小説に期待したいのは、次の点である。
1.綿谷久美子が幼少の頃受けた性的な虐待の真相を明らかにすること。岡田亨と結婚後も、その性交渉を上の空とするほどの、被虐的体験とは何だったのか、それを明らかにすること。
2.娼婦に身を落とした加納クレタがパシフィックホテルの一室で綿谷昇から受けた性の儀式とは何だったのか、それを明らかにすること。
3、綿谷昇の「悪」に象徴されるあるものを想定することで村上春樹は何を言いたいのか。また、その悪はノモンハン事件の悪とどう関係するのか。間宮中尉の懐古談の中には残虐な蒙古の話があるが、これと村上が良く言及する「高度資本主義」の悪とは、どう関係するのか。

 村上春樹は、以上の疑問に応える様に具体的に描かなければならないだろう。
 そして綿谷昇に代表される「悪」なるものの起源なのであるが、その根源は同時に岡田亨それ自身に淵源する、と云う認識は村上にはないのであろうか。
 妻に堕胎させた日、彼は都合よく札幌に居た。最終的な決断は他者に肩代わりさせ、そのリアクションが雪の、札幌の帳に閉ざされた街区を彷徨わせる結果になった筈だ。そこでたまたま町のバーで遭遇した不思議なギターを弾く流しの歌手の異様なパフォーマンス、その人物に似た者を東京の街角で見かけて執拗に追跡し、最後は奇妙な暴力沙汰に巻き込まれる。自分自身が加害者なのか被害者なのか解らないほどの狂気の世界に引き込まれて行く。正当防衛とは云いながら、反撃の程度は度を超えていて、単に打擲すると云うのではなく「存在」の抹殺、ここまでの強い憎悪はそこに自分自身の影を見ているからにほかならない。

 つまり『ねじまき鳥クロニクル』第一部・第二部を読んだ範囲では、綿谷昇とは岡田亨に他ならないのである。「悪」を外部に投影するのではなく、自らに主体的に引き受け、岡田亨が自らの原罪の自覚に至るか否かがこの作品のポイントである。

 さて、完結していない『ねじまき鳥クロニクル』、第三部は果たしてそのようになるだろうか。
 未読のまま、結末を予測して見た。