アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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映像と言語の間 『雨のしのび逢い』と『モデラート・カンタビーレ』 アリアドネ・アーカイブスより

映像と言語の間 『雨のしのび逢い』と『モデラート・カンタビーレ』
2012-11-30 21:12:10
テーマ:文学と思想

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・ 雨が降らないのに『雨のしのび逢い』。公然と、投げやりのようなけだるさの中で、人目を気にすることもなく逢引きを続ける、人妻と住所不定の男のふてぶてしいともとれる態度、この映画には、これ以外にも不思議なことが幾つかある。

 原作は、ボルドーの近く、ジロンド川の河口の小工業都市、広く開けた河岸に添って船着き場と、幾つものクレーンの黒々としたシルエットが印象的な町を、広い工業用道路が一直線に河口の砂丘まで続いている。
 しかし、これは「原作」(小説)のイメージではない。イギリスの舞台演出家ピーター・ブルックが勝手に原作を読んで造り上げたイメージである。

 原作は、季節は初夏から夏へ、西日を浴びる広い窓ガラスを持った、おそらくはその小都市のメインストリートに面した、古びた、工業労働者たちの溜まり場になっているカフェが舞台である。小説の中では、大きく傾いた夏の夕日が、登場人物の表情を、カフェやレッスンに通っていたジドンド先生のピアノ教室の柄模様の壁を明るく照らす。
 映画では、曇天の日が終わることなく続き、雨は一度も降らない。アンヌ・デバレード夫人をジャンヌ・モローが演じ、相手役をこれもまたヌーヴェルバーグで有名なジャン・ポール・ベルモンドが演じる。ベルモンドは若くはない。

 ここから違った二つの物語が立ち上がって来る。
 ひとつは、ある痴情事件を偶然に目撃した二人が、事件の真相をあれこれと想像するうちに、想像的世界と現実の境界が次第に解けて行って、行く処まで行くしかないと、追い詰められていく話である。
 原作では、最初に愛し合った男女の殺人事件があり、それをなぞるような生き方をする二人の男女がいて、カフェで口にするワインの杯を重ねるごとに現実と幻想的世界の境界は曖昧になるのだが、カフェと云う多数の人間が行き来する衆目の場であるがゆえに、この幻想劇は完遂しえない、男は亡骸のようになった女を残して、現場を去る。
 女は、文学史的にはモーリアックのテレーズ・デスケルーの末裔であり、日常を殺意で持って贖うほかはない宿命性を秘めている。殺人か狂気かしか道は残されてはいない。二つの事件を繋ぐ関係は同質であり、形式に於いては相似の関係になる。それが何故ぴったりと重なり合う「合同」の関係にならなかったかは、明示的に説明されていない。とてもだめだわ」とアンヌ・デバレードは言う。
 デュラスの原作は、あくまで初夏から夏にかけての明るい陽差しの中で展開する。愛と死と絶望の風景は、夏の日の盛りの空虚さこそ相応しい。

 ピーター・ブルックは、この原作を読んでブリューゲルのような陰鬱な空の下に、あるいはグラスゴーのような、夏の季節が短い工業都市の無機的な風景の中で俳優たちを演じさせることが相応しいと考えた。日本の題名翻訳者はその内容に相応しい、「雨のしのび逢い」と云うタイトルを選んだ。実に日本語による、巧みな題名の翻案である。日本語の優れた言語特性は、こうした微妙な陰影を訳し分け、適正な言語が見当たらない場合は演歌や歌謡曲などの世界からでも借りて来る。

 また、ヌーヴェルバーグの二人の俳優は、映画にないものを付けくわえた。それは前後して起きた二つの出来事を微妙に描き分けたのである。最初は崇高な宗教劇として、二番目は二番煎じの醜い茶番劇として。ピーター・ブルックスの映像が持つ「頽廃」を、「愛の作家」マルグリット・デュラスは嫌悪した。映像は、意図せずして大女優モローの内面的な「頽廃」を描き出し、拡大してしまったのである。

 デュラスの原作では、同一の事件と繰り返しを悲痛な愛の物語として描き出している。原作には「頽廃」の影はない。二人が別れる最後の日、デバレード夫人はある種の決然とした思いを持って、男とともにカフェに足を踏み入れる。二つの事件を繋ぐ関係が、単なる痴情若しくは猟奇事件でないことは、次の記述によっても明らかである。

「女主人は、二人がなおも黙り続けている間に、体を向け変えてラジオをつけたが、その動作は、別にやきもきしている様子もなく、しとやかですらあった。」(河出文庫P134 )
「お客が、ただ一人きりで所在なさそうにはいってきて、やはりぶどう酒を注文した。女主人は彼に酒を出すと、今度は注文もされもしないのに広間の二人に給仕しに行った。」(同上)

 このカフェの女主人は、この一週間に起きた二つの物語の一部始終を知っている。カフェに集う男たちは見て見ぬふりをするか知らぬふりをしている。姦通に対する軽蔑、常識的な嫌悪もあるかもしれないが、これが二人に取っての最後の日であることを知っているだけに、そこには敬意すら感じられる。もちろん終末に向かう愛に対する敬意である。
 であるがゆえにこの日の女主人のワインを継ぐ所作は「しとやかですらあった」とデュラスは書くのである。
 見るものと見られるものの関係、人と人との間が異常に近い田舎町の人間が持つ関係性の中では、ちょうど浄瑠璃や歌舞伎の道行きの二人に対する観客の関係のように、同情心に近いものを想像したとしても、全くの見識外れと云うものではないだろう。

 しかしピーター・ブルックの無機的な映像美は、人間の抒情的な関係の一切を断ちきるのである。同じ物語が映画ではこうなる。――

 最初の若い二人は愛の殉教劇の崇高な受難者として現れる。黒ずくめの、何処かフォーマルな外出着に身を固めた女は若く美しく、髪には黒いショールを掛けている。殺害者である男の眼は遠くを見る様に霞んでいるかのようであり、厚手のスーツもコートにも上品な風情が感じられる。つまり通常の単なる痴情事件ではないことを映像は雄弁に語る。
 一方、アンヌ・デバレードと男は、この事件に衝撃を受け、原因をあれこれと推測するうちに現実と幻想的世界の境界を次第に混同して行く。その二人は既に若くはない。長年の不如意な生活は二人から生気と希望を奪い、純粋な愛は物語的世界の事件としてしか信ずることが出来ない。一年も前から、遠くから身分違いのアンヌ・デバレード夫人を見ていた男の、異性を求める願望には何か蛞蝓のような執拗さが感じられる。ジャン・ポール・ベルモンドがこの陰湿な性願望を上手く真迫的に演じている。
 他方、原作では、二人は一度も抱擁することはおろか手を重ねることすらなかった。悲劇が二度目の茶番としてしか完遂しえないことが明瞭に理解されるようになった段階で、死の儀式として、アンヌの方から、たった一度だけ接吻のまねごとのようなものが交される。この行為は切ない。
 一方映画では、欲情に駆り立てられたようにベルモンド演ずる男は、首筋の頭髪を両手で掴み身動きできないようにして強く、所作の伴わない無言の愛撫をする。この場面の卑猥さとエロティスムは、ジャンヌ・モローの俳優としての存在感をして十分にして過不足なく、説得的に描かれる。

 崇高な愛の受難劇は、美しく若い二人の於いてこそ相応しく、子持ちの生活に疲れた中年の男女が演じても、それは茶番にしかならない。カフェと河岸の付近を行き来する二人の愛の風景に対して、世間の目は冷たく、凡そ同情と云うものを欠いている。モノクロのカメラの冷静な映像は冷たく、死を選ぶか狂気の世界に行くほかにないほどの孤立感を描いて、最後の破局を描く。

 殺される前に若い女が挙げたような叫びを、原作の中年であるデバレード夫人は挙げない。最後のところで、事件が不首尾に終わることを予感して、淡々と終わる。
 一方、映画のデバレード夫人は、殺された若い女が挙げた声をなぞるように、二度、悲痛な叫び声をあげる。これは物語的世界と現実との相違を認識しえたことの確認を経た行為なのである。崇高な愛の反対側に居ることの実存を主張することに於いてデバレード夫人の乾坤一擲の行為は哀しい。男はそんな女を見捨てて、「殺人現場」を後にする。崇高であるどころか、醜い中年男女の痴情事件でしかありえなかった事件に対して、二人に残されたのは、白眼視する世間の目でしかないのである。

 原作者のデュラスは、演出家ピーター・ブルックを評して、「この映画の演出に必要な狂気の素質がない」と云い放っている。果たして、そうか。現代におけるシェイクスピア演劇の世界的権威でもあるブルックが、狂気を理解する素養がないと言い切れるだろうか?――

 映画は、「殺害現場」に放置された妻を車に迎え入れる主人の映像を留めているのだが、一巡して日常に回帰した、と云う意味ではない。生きざまを晒し、死んだようにして生きていかなければならないアンヌ・デバレードの狂気に向かう道を暗示して終わっているのである。

 崇高な愛を澱んだ日常生活の中で狂気のように求めても、それを裏切るような身体性に引き裂かれるような悲痛なドラマ、頽廃とイロニー、これが原作にはないものである。原作者デュラスを激怒させたのは、愛の純粋性が、人間関係と云う相対の場に置かれた場合に生ずるイロニーであり、身体性が持つ裏切りの構図であった。

 畢竟、映画は原作のダイジェストでも簡易版でもない。映像撮影と記録設備と云う、現実により密着し制限された媒体手段を使うがゆえに、原作の忠実な再現は望んでも得られることではなく、二時間と云う条件一つとっても、時間と空間の枠組みの中に首尾一貫した物語世界を再現することは、それ自体解釈を伴う行為であり、異なるメディアを使って翻訳し、再現すると云う行為は、好むと好まざるとに関わらず創造的な行為なのである。映像作品とは、何よりも原作についての雄弁な言語批判なのである。

 ここで「言語批判」とは単なるあれこれの批評のことではなく、それが意味するものは、表現された限りに於いての作品に於いて、作者の主観的意図を超えて立ち現れて来る自体性、客観性を帯びた意味、形象的に表現されているもののことです。