アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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村上春樹『ねじまき鳥』クロニクル・第三部 アリアドネ・アーカイブスより

村上春樹『ねじまき鳥』クロニクル・第三部
2012-12-02 16:16:35
テーマ:文学と思想

・ なにかで村上春樹が「全体小説」と語っているらしいと聞いた。本作を読んで、その意味が少し解るような気がした。全体小説、総合小説と云ってもいいのだが、通常はバルザックエミール・ゾラ、あるいは最近の読書界の傾向を見ても、ジョイスプルーストに言及しなければならないはずだが、それがないのが如何にも村上春樹らしい、とも云える。言葉は通常時間的経緯や歴史の柵の中で語られるのだが、言葉の由縁を超越して語る処に、ポップとしての村上春樹の新しさがある。如何なる因習や伝統からも自由であると云う点に村上文学の新しさがある。(あるいは、そのように信じているところに特徴がある。)

 風俗小説を書く場合の長所でもある村上と言葉の「自由」な関係は、歴史や権力を扱おうとする場合、どうなるであろうか、それが本書である。

 妻と飼い猫の失踪と云う事件で始まったこの三部作は、様々な人物との出会いを通じて、最後は真相に近いところまで行く。異界にあるとされる品川のパシフィックホテルの「208」号室で、ついに「悪」そのものと対決の時を迎える。暗闇での死闘の果てに、相手が繰り出す刃に傷を負いながらも
「殺人バット」は確実に相手の脳天を打ち砕く。主人公は極度の恐怖と疲労の中で嘔吐しながら、あれほど求めていた真犯人の顔を直視できない。部屋の中で死闘を見守っていた女――実は、岡田久美子の影でもあるような存在の女に「見てはいけない」と言われて、チャンスを逸してしまうのだが、大方の読者は撲殺された死者が誰であるかは知っている。この小説の中ではそれが誰であるかを名指されて書くことはないのだが、綿谷昇であるらしいと多くの読者は思っている。しかしホテルの一室に何時も闇のように蹲る謎の女性の「見てはいけない」と云う制止が意味する本当の理由は何か。撲殺された物体は、岡田亨の自分自身の影であったからではないのか。

 岡田亨と綿谷昇は多くの点で似ていないが、一つの点で似ている。それは共にリアリティを持たない、と云う点である。どういうことかと云えば、第二部までの岡田亨には、スパゲティを茹でたり駅前のクリーニング屋に入ったりする小まめな日常生活の細目だけがある。一方、綿谷昇には政界や華やかなメディアでの活躍だけがある。つまり内向きと外向きの両極端、二人はその中間にあるべき人間のリアリティが欠けた存在なのである。

 類似点は、ゲバルト暴力に対する考え方にも表れる。ゲバルトとは、言語の限界に立ち現れる世界である。村上の登場人物たちの多くが精神的ないし物理的なある種の不全感を体現しており、しばしば体験の言葉により語り難さに就いて語る。つまり、言葉に対する限界、あるいは言葉の限界、村上春樹の登場人物の多くが生息している世界はそうした世界なのである。云うまでもなくゲバルトの問題が最初に、明示的に現れて来たのは『羊をめぐる冒険』においてであった。村上の登場人物たちが言葉についての不全を語るとき、ゲバルトの問題は潜在的であったと云える。
 つまり本作は、ゲバルトの問題が、綿谷昇と岡田亨と云う両極端に現れている点に特徴がある。

 ゲバルト、すなわち言語の壁としての暴力の風景は、歴史的地平としてはノモンハン事件や輸送船の前に現れた潜水艦の風景等として語られる。幻想的時間の風景としては、妻と猫の失踪後、白黒反転した壁の外の世界、すなわち異界として表現される。作中、度々出て来る井戸は異界への入り口として用いられている。第三に写実的世界における暴力は、綿谷昇の「伝説的」悪徳や、政治や国家の悪として表現されている。新宿西口広場で遭遇した謎の歌手をめぐる暴力沙汰や、最初の頃に出て来る岡田夫妻の家事をめぐる会話にも、「暴力」の微かな匂いが感じられる。

 問題なのは村上が、暴力ゲバルトの問題を言語の壁として自覚的に捉えることが出来ずに、「恐怖」として情緒的な受け止め方に終始している点であろう。折角、国家権力や合法的装置の問題を目指しながら、ノモンハン事件と皮剥ぎと云う残酷な拷問の方法、動物や非戦闘員を乗せた輸送船に対する潜水艦の無差別攻撃など、個々の記述はそれなりに興味深いのだが、歴史的な叙述と云うよりは、「恐怖」に対してのリアクションであると云う感じがする。これらのトピック的な事象と物語的な世界との構造的かつ有機的な関係を読みとることが困難なのだ。

 これは村上春樹だけの問題ではないのだが、寓意なり象徴をもって歴史を語ろうとする場合難しいのは、村上が『羊をめぐる冒険』以来、顕著にとるようになった幻想小説、あるいは児童文学めいたファンタジーの手法である。本作も大きな枠組みとしてはモーツァルトの『魔笛』を暗示的に用いている。
 児童文学の形式を用いる場合の困難は、子供に良いもの悪いものが自明の前提として確たるものとして存在し、見てはならない領域として「壁」を設けてしまうと云う、こちら側の無意識的構造である。よい大人がこの無邪気とも云える構造をそのまま使用すればどうなるのか。ファンタジーの「外」に「恐怖」を無意識のうちに仮定してしまうのである。「恐怖」は悪の類型化と情緒的な嫌悪感を生む。本書は、主観的には現代の国家悪や暴力機構に対する抵抗の書として企画されながら、「恐怖」とテロルとして構造として受け入れる、あるいはそれに過剰に反応して迎合的姿勢を見せる――シベリア抑留時代を描いた皮剥ぎボリスと間宮中尉の関係などなど――などをみれば、その類似性には肌寒いものすら感じさせられる。

 村上は『ダンス・ダンス・ダンス』の中で、あっさりと「高度資本主義」と云ってしまう単純さである。『羊をめぐる冒険』や『ノルウェイの森』の中で、「60年とは・・・」と語った時局論、余りにも割り切りの良い正々堂々の外連味のなさは、そこで一人の同時代の生身の人間が考えたと云う臨場感に乏しいのである。つまりわざわざ村上春樹でなくとも、誰もが言えてしまう安易さと云うものが感じられてしまうのである。
 本作に於いても「高度資本主義」を描いたと云いたかったのかも知れない。しかし管理社会の悪を、「東大卒」のエリートや、旧家の何やらおどろおどろしい近親相姦めいた家庭の秘密で云々することはできないだろう。ノモンハン事件をめぐるモンゴルの皮剥ぎと云う風習や、流刑地でのテロルや残虐行為で「高度資本主義」の根源悪を語ろうとしても、限界があるだろう。結局、村上の小説における謎めいた部分は、作者自身にも良く分からず未整理なまま小説を書いてしまった、と云う気がするのだが、どうだろうか。

 もちろん村上春樹の善意を疑うものではない。『風の歌を聴け』などの、言語の特権性に保護されていない好青年であった村上を私は好む。「全体小説」?として、ノモンハン事件満州国家の事情、敗戦後のシベリア抑留や引揚体験とはどういうものであったのか、それを伝える資料、教育やメディアが日々希薄になっていく中で、何百万と云う読者を持つ村上春樹が、それを若い世代の人たちを中心に語り伝えていく姿勢は評価しなければならない。国民は、いま雑多で膨大すぎる情報量に囲まれて何を読んだらいいのか、何を信じていいのかが分からず、途方に暮れている。そうした状況の中にあって本作以降村上春樹が読者に届けようとしている、情報と作家の善意は無駄なものではない。