アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

デュラス『木立の中の日々』 アリアドネ・アーカイブスより

デュラス『木立の中の日々』
2012-12-03 15:09:29
テーマ:文学と思想

 http://pds.exblog.jp/pds/1/200912/09/12/c0077412_1063683.jpg


  何十年前も前に読んだのに何時とは思いだせない。その時のことが思い出せない。初版のあとがきがあるので、たぶん1967年頃のことだろう。読みながら、かすかだがその頃の記憶の断片が甦って来る。しかし記憶と呼ぶのもはかない夢の断片のようで、いっそ他人の体験と呼んでもよいほどの頼りなさである。
 そんな頼りなさは、しばしば停電した大ホール階段教室の地階にあった学校の部室の在りし日の風景を思い出させる。停電になると、煙草の先端だけが蛍のように闇に揺らめき赤く弧を描いた。それは今でも忘却の時の彼方から立ちあがってくる揺らめきのように思い出されるのである。その日わたしたちの会話は、停電に妨げられることもなく日長く延々と続いた。延々と続いて何時までも夜が明けないかのような日長さがあった。あの頃は若く、苦労も知らなかった、と一応は言える。しかしあの頃でなければ解らない、絶望感や苦労と云うものもあったは筈だ。しかし希望はあっだだろうか。デュラスを読むとは、わたしの場合曰く分かり難い絶望感と結びついていたようである。その絶望感はやがて実人生の中で徐々に姿を現して来るのだが、芸術的感性とはしばしばそうした予感を先取りするものなのであった。デュラスを読むとなると、どうしても何十年も前の自らの感性と対話を交すことにならざるを得ない。そしてあたりをいまを見まわすと、現実も何もかにもが変化しているのであった、かく言う自分自身も。「木立の中の日々」のような母親と若者の哀しみがわかるようになったのも時の変化のひとつであろうか。デュラスの体験は、重い錘の様に心の深海に鎮む。デュラスとはそんな特別な対象なのであった。
 過去の感受性!しかしそれは、その輪郭ですら思い出すのは不可能である。

 この短編集には四つの作品が納められている。『木立の中の日々』『ボア(王蛇)』『ドダン夫人』『工事現場』である。読み返して記憶の琴線を微かに掠ったのは『工事現場』であった。

 『工事現場』は最もデュラスらしいと云えば、そう言える作品である。森のはずれにあるとある避暑地のホテルを舞台にした無言劇と云えば、無言劇、最後に見知らぬ男と女の二人は二言三言言葉を交わすのだが、一切の明瞭な表象を欠いている。工事現場と云う題名はホテルの前の墓地の改修のことを言っているらしいのだが、一言も明示的に語られることはなく、最初の方で女の、ふとした逡巡した行動で暗示されるだけである。つまり「死」をめぐる物語であることが最初に暗示されるのである。

 二人の愛の経緯は、超スローモーション的と云うか植物的と云うか、花弁が受粉にいたる成り立ちを、引き延ばされ拡大された映像でみるように、愛と性の神秘を、最後のわくら葉と葦の茂る池のほとりの神秘的な儀式まで、一直線とでも良いほどの躊躇いのなさで進んで行く。

 原作には一言も描かれていないのだが、二人は自殺願望者なのである。自分たちの運命を悟り理解して、まるで凱歌を挙げるかのように、無言であった二人が瞬間的に哄笑する場面の薄気味悪さは、後年の『モデラート・カンタービレ』のアンヌ・デバレードの死への願望を彷彿とさせる。

 今回注目したのは、この作でデュラスが用いた文体である。フランス心理主義の伝統的な文体とでも云えるのだろうか、言葉になる以前の真理の陰影のふるえ、のようなものを伝える情緒纏綿とした、しかも知的に明晰を極めた文体なのである。
 翻訳で読んですら、こうした文体を編み出した民族性には敵わないなと、改めて思った。

 そう言えば、この短編集は、多様に書きあぐねていた初期デュラスの文体の実験場であるかのごとくである。本短編集の表題にもなった『木立の中の日々』では、対話文体が、しかも≪噛み合わない、デュラスの対話≫として有名になる『モデラート・カンタービレ』などで完成する、デュラス流の先駆がある。
 『ボア(王蛇)』は、処女性を守った寮母の秘められた性願望と、一週間に一度だけ若鳥を生きたままむさぼり喰らう巨大な王蛇の、生と飽食への充実と、その後の死んだような静寂を描いている。完璧な犯罪と云うものがあれば、それは生の溢れるような横溢とむさぼるような眠りが共存する静寂以外のものではないのか、そんなお話しである。語り手は、一週間に一度だけその寮母に連れられて動物園に生きボア王蛇の生態を見聞し、そして帰って来ると満たされなかった生涯の象徴でもあるような、寮母の特異でもあれば異様な下着に対する関心、フェティシズムを見せられ、共感を強要される。
 他に、アパルトメンと管理人と道路清掃婦の、日常性に潜む「狂気」を描いた『ドダン夫人』がある。

 しかし出来栄えとしては『木立の中の日々』だろう。
 パリで暮らす末の息子と、地方で80人の町工場を経営するまでの母親が息子とその同居人を訪ねる話である。定職や社会性と云う大人の本分が身に付かず、その日暮らしをしている息子、それと気の良い同居人である娘、――その娘が同居人としてしか存在できないのは、愛人とすら呼ばれることが頼りない行きずりの一時の路上の立会人であるからにすぎない。幼いころ公園に捨てられ、施設に育ち母親や家庭と云うものを経験せず、何時も泣いているばかりで、愛されることを断念し、いまある現状に満足し、愛はなくとも息子の部屋に於いて貰えるだけでも幸せを感じている、気弱な薄幸の娘、その三人が過ごしたひと夜のお話なのである。

 母親は、郷里に帰って町工場を継ぐようにする説得を諦めて、予定を早めた帰郷の途に就く。その最初にして最後の晩、息子はあろうことか暖炉の上に置いた母親の15個あった貴金属類を幾つかを盗んで金に換える。そして換金した金を博打ですってしまう。デュラスが凄いのはここからである。

 ベッドで仮眠していた母親はそれに気づいても微笑みを絶やさない。幼年期の頃、木登りばかりをしていたと云う息子にこのように言う。そんな息子を誇りに思う、と云うのである。――

”「そういうのは、あたしだけにしかわからないちがった誇りなのさ。だから、あたしがつらいのもそのことだけなんだよ。おまえ、それだけなのさ。あたしだけにしかそれがわからないっていうのに、そのあたしが死んでいく、あたしが死ねばだれも、そんなことを誇りには思わないだろうって考えることだけなんだよ。」”(p127)

 隣の台所で、寝室での二人の会話に聞き耳を立てていた薄幸の娘は泣く。それは初めて自分以外のもののために流す涙であった。

”彼女はこのふたりをかわいそうな人たちだと思うのであった。とうとう彼女は、母親の身の上を思って、また泣きはじめていた。”(同上)