アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『30年代の危機と哲学』 アリアドネ・アーカイブスより

『30年代の危機と哲学』
2012-12-06 16:46:45
テーマ:文学と思想

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・ 20世紀を代表する、ハイデガーの『ドイツ的大学の自己主張』『なぜわれらは田舎に留まるのか?』、フッサール『ヨーロッパ的人間性の危機と哲学』、そしてホルクハイマーの『社会の危機と科学の危機』である。

 今日に於いても新鮮なのは流石にハイデガーである。彼は言う。――

”学問とは、今後ともわれわれにとって存在すべきものなのか、あるいはわれわれは学問にいちはやく終焉をむかえさせるべきなのか。学問がそもそも存在すべきであるということは、いかなるばあいにも決して無条件で必然なわけではないのだ。しかし学問がもし存在すべきであり、しかもわれわれにとってかつわれわれを通じて存在すべきだとするなら、いかなる条件のもとに真に学問は存在しうるのか。”(p105 『ドイツ的大学の自己主張』)

これなど一頃であったら、大学構内の立て看板にあっても不思議ではない風景であるような既視感にとらわれる。

 ここからハイデガーは、原初におけるギリシア的な精神の芽生えに遡及する。

”<知はしかしはるかに必然よりも無力である。”(p106)

 ここでハイデガーが言わんとするのは、創造的無力、と云うことである。
 けだし知とは、古代ギリシア人にとって、「驚き」であること、存在に囲繞されてあることの「驚き」に発するものである、と云う哲学の起源史に回帰する。

 しかし古代ギリシア人の好奇心は、他方ではテオリア観想的態度をも導いたのではなかったか。内面的生活のソクラテス風の生き方は、宇宙と自我の分裂、の先ぶれでもあったはずだ。

 宇宙と自我の分裂は、テオリア静観とパッション受苦を生む。

 しかしハイデガーによれば、テオリア観想からは、パッション受苦――存在に対する驚きと畏れを通じて、エネルゲイヤ<作動しつつあること>、すなわち実践を導き出すと云う。

理論とは「まことの実践の、最高の表現であるということをみなすことにあるのだ」(p107)
 
 かかる「実践」概念を梃子に、ここからフューラー(総統)の元での行動三原則を見出す。ハイデガーらしいアクロバッティングな思想である。

 1.勤労奉仕
 2.国防奉仕
 3.知的奉仕

 こうして、多くの学生たちが書物を焼いて戦場に参戦して行ったのだろうか。おぞましいことである。奇怪な扇動的所作である。
 しかし、魅力的である。今日に於いてすら、「大学の自己主張」に拮抗しえる学問論を提起しえるだろうか。60年代の学生たちの木霊とハイデガーの1930年代の言説を区別するものがあるだろうか。

 しかし、何ゆえか一年後ハイデガーはナチズムと袂を分かつ。
 二度に渡るベルリン大学総長への招聘を拒んだ経緯が、『なぜわれらは田舎にとどまるか?』、である。
 戦後、ハイデガーの破廉恥な行動は様々に論評され酷評されたが、ナチズムに不快感を与えたのは間違いないだろう。
 抜け目ないハイデガーのことだから、自分の国際的な知名度?に照らして、簡単には抹殺出来ないと云うことを知っての行動だろう、と察しは着く。しかし単純な迎合ではないのだ。むしろ招聘に応じていたら彼の言動はより多くの青年たちを無益な戦場の場に鼓舞する国際的な学者の言説としてより高い機能を発揮していたかもしれないのだ。あるいはレーム事件に連座するような形で処刑されていたかもしれない。我が国のどさくさにまぎれて殺された北一輝のように。
 『なぜわれわれは田舎に留まるか?』は、軍事行政庁の機関誌のために書かれたにしては意表を突くものがある。文学的な名文とは云えるかもしれないが、鷹が空に弧を描く人里離れた山荘の厳しい風景と、農民との交友を描くブリューゲルあるいはゴッホ風の重厚な風景画には、つくづくハイデガーと言う人の皮肉な人格と育ちの悪さを感じてしまう。

 同じ時期を生きたハイデガーの師でもあるフッサールは別のことを考えていた。哲学と科学の関係、とりわけ「科学」とは「科目的」学であるべきところの、本来的な哲学と科学の転倒された関係についてである。
 
 ここから概ね、二つのことが今日的課題として提起される。
1.人文的学問と自然科学的学問分野と云う風に二分立的に考えた場合に於いて、後者のみが、生産の方法としても世界観としても主導権を取るようになってしまった、ということ。そこから、今日では心理学の隆盛に見るような、精神的な領域を自然科学の方法で基礎づけようとする本末転倒の学問的なヒエラルキー精神的階層的秩序が成立しているかにみえること。
2.科学的な知が、普段の常識人の知的世界から乖離した存在となったこと。その理由には、学問が日常的な実感とは無関係の、数学的な計量化や計数化を志向する、普遍的知を僭称したことにあると。

 フッサールは、ヨーロッパ的な知の危機的なあり方を上記のように要約し、そこから脱出のための処方箋は、自らの学問的な立場、――現象学にあるとした、現象学的な先験的還元の方法によるのが良いとした。

 先験的還元とは、
第一段階:自然科学は、ありのまま現実を映し出すと僭称するが、所詮は自然科学と云う「理念」の衣によって粉飾されたイデオロギーに過ぎない。理念の衣の「嘘」を見抜くこと。
第二段階:合理主義や科学的客観主義は己の存立の根拠と目的テロスを定立出来ないという宿命を持つ。学問に究極の目的を与えることが出来るのは人間であり、フッサールはそれを単に自己とは云わずに、超越論的なな自我と云う。「自然が自ら精神のうちに帰還して来る」(フッサール)特別な自我である、と云うのである。
 フッサールの超越論的自我がヘーゲルの絶対精神と異なるのは、日常と云う相対的な世界に留まり、その実感や情念を受けとめようとしてこの世に留まるからである。

 三番目のホルクハイマーによれば、今日の学問の危機は基盤となる社会体制の変動に学問が対応できない、アナクロニズム時代錯誤性にある。学問とはそれ自体で単体で存在するものではなく、社会や歴史プロセスの反映であるのだから、ザイン存在を記述する学問ではなく、生成に対応する学問にならなければならない、と云うことだろうか。

 おしなべてこれら三者三様のヨーロッパの知的巨人の語り口は何れも晦渋である。ここから、自然科学とは何かと云う点についてわたしが考えていることを箇条書き風に書いておく。
1.自然科学と合理主義は、人類にとって有用な学問であり、今日の疲弊した知的状況や危機を科学のせいにすることはできないだろう。
2.自然科学に問題があるとすれば、その有用性や効率の故にではなく、いっけん没価値的なイデオロギーの中立性というものがあり、この非有用性がギリシア以来のテオリア観想的態度と結びついて、スコラすなわちカトリック的なドグマの様態変化の資本主義的一形態として現れている現代の宗教批判の水準にこそある、ということではないのか。