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村上春樹論・まとめ――『風の歌を聴け』から『ねじまき鳥クロニクル』まで アリアドネ・アーカイブスより

村上春樹論・まとめ――『風の歌を聴け』から『ねじまき鳥クロニクル』まで
2012-12-11 15:14:25
テーマ:文学と思想

 

1.デビュー作『風の歌を聴け』には読み方が二つあります。ひとつは、従来の村上の読者たちがしてきたような、主人公である「僕」の友人「鼠」に焦点を当てて読む読み方です。
 この読み方は、村上は本作で開いた特異でああれば個性的なポップの文体が持つ新しさを評価できずに、従来の「鼠」を中心とした、永遠の青年の挫折物語を読んであことです。良い大人の読み手が――プロの評論家たちのことを言っています――まんまと、かかる感傷的な読み方に従うと云うことの中に、あの過激でもあれば反抗的でもあった60年代と云う時代への、極端なリアクションを読みとるのです。この傾向は、後で書くように『羊をめぐる冒険』で顕在化します。

2.『風の歌を聴け』を主人公の「僕」を中心とした物語として読めばどうなるでしょうか。
 「僕」は、親切が女の子に誤解されても抗弁しない心優しき青年です。この無気力さの原因は何処にあるのでしょうか。それは半ば育ちの良い関西の青年が東京と云う都市で学生生活を続けて行くうちに感じた個人的な性格かもしれません。そうであるにしても、「1970」と云う数字に作者が拘る限りに於いて、この青年は60年代の生き残りであることが明らかになるのです。
 60年代とはどんな時代だったろうか。それはケネディに代表されるフロンティアスプリットの時代であり、毛沢東チェ・ゲバラに代表される自己主張の時代だったのです。その黄金の世代とも云うべき時代が過ぎ去ったとき、潮が遠い沖の方まで退いて取り残された水溜りの中の小魚のように、もの言わぬ世代が出現するのです。「僕」とはそうした60年代の「後」に生じた真空空間、もの言わぬ小さき者たちを象徴させているのです。
 「小さき者」とは、ラジオの深夜番組に音楽のリクエストとともに便りを届けて来る少年少女たちです。「深夜番組」であると云うこと、ここに平常のコミュニケーションの手段を欠いた同時代の等身像が浮かび上がって来るのです。今の世代の方には分かり難いかもせれませんが、皆が寝静まった深夜から明け方にかけて、電波と云う頼りない人工的な音源だけをたよりに、そこにだけ幻のような幻想空間が出現するのです。そうした、通常の文学がもつ叙述文法では不可能なことを、村上春樹はあの断片的で継ぎはぎ細工のような不格好な文体で表現していたのです。
 同様に、短編集『中国行きのスローボート』でも、時代に向き合う作者の姿勢には変わりありません。この作品は、青年村上春樹の素質の良さが最も良く表れている作品だと思います。
 こうした初期の村上春樹の特色が理解されぬまま、毀誉褒貶の議論が繰り広げられているのが何とも奇妙な文学風景です。

3.こうした傾向が変化するのは早くも『1973年のピンボール』からです。ここでは時代の波間に消えて行った「小さき者」たちは、何と「208」「209」と云う記号で呼ばれるような存在に変化します。この作品のテーマは、ピンボール・マシーンに代表される、時代遅れの機構に対するノスタルジアです。ノスタルジア的姿勢の掲揚の中で「小さき者たち」は符号として、存在感や時代を生きたものとしてのアリバイを失っていくのです。
 それは「鼠」をノスタルジアの象徴としてだけではなく、「英雄」として描き直すことに於いて現れました。
 「小さき者」を踏み台にしてのしあがる幻想的な英雄像、それが『羊をめぐる冒険』の「鼠」であり、流行作家村上春樹が読者の側から受けた、別様のセージだったのです。

4.『風の歌を聴け』の「鼠」と「僕」の関係は、60年代の中心と周辺、活動家とシンパの関係に似ているように思えます。60年代がそうであったように、「僕」はどうしても遠慮がちに受け身であらなければならないのです。方向性を失ったあとも哀しき習性と云うのか、昔のリーダーの傍を「僕」は離れることが出来ないのです。「僕」は「旧友」のまわりを哀しくも付きまとうほかはないのです。
 「僕」が、時代の呪縛を逃れるための方法は、それを忘れるかそれとも極端に英雄化して見せると云う手法が残されていました。つまり褒め殺すと云うことですね。こうして、60年代への挽歌としての『ノルウェイの森』の世界が誕生するのです。

5.『ノルウェイの森』は、例の中心と周辺との対比で云えば、周辺に居たものの復讐の物語です。物語の前半、直子やツヅキ君に関して叙述した部分は、過去の呪縛力が如何に大きなものであったかを語っています。これは村上に関してそうであったと云う意味ではなく、「正常化」路線を辿りつつあった総体としての70年代の国民感情としてそうだった、と言う意味です。そう言う意味で『ノルウェイの森』は国民の情念の代弁書なのです。この関係は、60年安保の世代と岸信介の関係を彷彿とさせます。
 さて復讐は、ツヅキ君の死から直子の死に至る過程で種々な形で遂行されます。その大々的な儀式が、最後の晩餐もしくは大嘗祭に範例を取った「東京の一夜」です。レイコさんと呼ばれる60年代の巫女は単なる京都の山奥に生息する悪霊ではなく、直子やツヅキ君と云う時代のヒーローの憑きものを払うために出現する救世主のような存在ですね。レイコさんは、宗教的儀式に則って饗食の宴の後に性の秘儀の開陳と、祓の儀式に及びます。こうして過去の亡霊はことごとく払い清められるのです。わたしは、この一連の過程を読みながら戦後の国民と天皇の関係を思い出してしまいました。
 レイコさんの乾坤一擲とも云える迫真の祓いの行事は、精根尽き果てて本人の生命すら奪うほどだったと云うから、少し笑えます。何れにせよ、レイコさんの犠牲的な死によって主人公は救われます。『ノルウェイの森』とは、村上春樹本人が意識するしないに関わらず、70年代の終わりに書かれたと云う意味で、極めて政治的メッセージ性の強い読み物になっているのです。
 ただ『ノルウェイの森』は、実はこれだけの作品ではありません。あの有名な電話ボックスの中にあって、「緑」さんを追い求める叫びの中で、この作品が持つ政治的メッセージを超える意味を表現しえているのです。
 いまは見かけることも少なくなった、周辺がガラス張りでそれでいて周囲の音が聞こえないと云う電話ボックスと云う60年代の風俗と云うか舞台設定が実に上手くこの作品では生かされているのです。結局ワタナベ君は緑さんと結婚しなかったことがこの場面にきて分かるのですが、わたしが凄いと思うのは、緑さんがワタナベ君の安否を気遣う場面です。緑さんは「あなたはいま何処にいるの?」と聴いているのに、ワタナベ君にはそれが、「あなは誰なの」と聞こえてしまうのです。それでワタナベ君は初めて、僕って何だろうと思う訳ですね。つまり誰でもでありえて誰でもでありえないエブリーマンとしての自分自身の存在に初めてワタナベ君は気づくのです。それが、四方を透明のガラスに閉ざされたワタナベ君の何処にも届かない叫びの孤独さ、世界で一番愛から遠い場所と云うものを描いていて、80年代の優れた文学作品たらしめているのです。
 
6.『ノルウェイの森』の登場人物たちが、綽名や記号で呼ばれなくなるのは、60年代からの時代の恢復像を作者から仮託されているからにほかなりません。『ダンス・ダンス・ダンス』の「ユミヨシ」さんがきちんとした日本名で呼ばれることの、「過渡」にあるのはそうした理由です。
 『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』は、村上春樹的世界のお伽噺です。このテーマパークでは、『風の歌を聴け』において、世界の根本のなりたちを知りたいと願った少女や「小さき者」たちは、「一角獣」と云う不思議なもの言わぬ家畜のようなものに変容しています。彼らの存在は、自らの小さき者の死の上に、現世を贖うと云う、まるでキリスト教の贖罪の儀式のような形で現れています。このワンダーランドに迷い込んだ主人公の物語は、不条理に満ちた世界の根源を探ると云う物語です。
 この作品の不思議さは、こうしたワンダーランドの神話的な構成が、もう一つの現世の物語と連動している、と云う点です。もう一つの物語とは、社会主義を思わせるような極端な管理社会の中にあってモルモットとされ、脳内に「世界の終わり」を埋め込まれた男の、ドタバタアクション劇であり、「世界の終わり」に向かう「ワンダーランド」の物語は、実は「ハードボイルド」の世界に生きる主人公の脳内に埋め込まれた物語でもあり得るのです。つまりお互いの営為がそれぞれの世界の物語に影響を与えると云う構造を持っています。それで一方のハードボイルドの主人公のドタバタ劇が不発に終わりそうな予感の中で終わるように、「世界の終わり」をプログラミングされたワンダーランドの世界の登場人物たちの試みも挫折するであろう、と云う予感の中で終わっています。
 この作品の結末がどうしてこのように暗いのかは、一つはもの言わぬ「小さき者」たちのなれの果てである「一角獣」が、死への欲望として形象化されているためです。少なくとも『羊をめぐる冒険』の頃までは、「羊」とは罪なき犠牲者の象徴であるとともに、「羊毛」による叙述から伺える日本人の西洋との出会いをも象徴する、デモ―ニッシュなものでもあり得ると云う両義性を持っていました。ところが「小さき者」はいまや一方的に死の産業の素材になり果てていたのです。
 この作品を暗くしているもう一つの理由は、この顕界と冥界という両世界の関係を作者が力動的な関係として描き得なかつた、と云う点です。主人公たちは何かこと改めて「責任」とか「公正」とか言う言葉を口にするのですが、その及ぶ範囲が実に狭いのです。元々、日常の細やかさをポップな感覚で表現することが得意な村上が、いざ外の世界の広さを描くとなると弱点が出てしまうと云う例証になっています。こうした村上春樹の欠点がもっと拡大されたのが『ねじまき鳥クロニクル』です。

7.『ねじまき鳥クロニクル』は、長大なだけで実に纏まりのない「全体小説」になっています。この小説の欠点はファンタジーなり児童文学的なドタバタ小説の枠組みが、本人の意図したものとは違って、作者の世界観や価値観の「制限」としてしか表現されていないことです。
 言うまでもなく、児童文学とはある種の約束事の上に成立します。それは赤ずきんちゃんが狼の腹から無傷で出て来るように、「本当のこと」は大人になるまでお預けですよ、と云う暗黙の了解のもとに読まれていると云う点です。この児童文学の普遍的な約束事が村上春樹の小説ではそのまま、「これはお伽噺ですよ」として、真にリアリスティックで現代の悪なるものは描かれないのです。
 『ねじまき鳥クロニクル』は、この世の成り立ちと悪の根源を描くと云うより、何か恐怖へのリアクションとして「ねじまき鳥」のねじまき音が描かれているだけだと言ったら身も蓋もないことになるのでしょうか。
 この小説で描かれているのは、実に子供のような恐怖感なのです。恐怖感の幕を超えて、その先にある「悪」そのものを描くと云うことにはなっていないのです。
 作者の児童文学的なレベルの世界観がやはり結末のあやふやさに表れています。折角、悪の本体と格闘を演じ致命的な傷を与えても、主人公にはその正体を見る勇気がないのです。真実を直視する資質に欠けるから、作者は主人公を最後に殺すことも出来ないのです。本当は、「悪」と格闘の末に引き剥がした仮面の底に何を見出したか、それは正義のために戦っていると思っていた人間たちに内在する「悪」の問題でもあった、と云うことにでもすれば少なくとも首尾一貫した物語になりえていたとは思うのですが、「児童文学」なので仕方がありません。

 今日、村上春樹の作品を読む意味は、『風の歌を聴け』や『羊をめぐる冒険』、あるいは『ノルウェイの森』、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』に見られるような、作者の形象性や表現力が作者の意図や認識を超えてしまう場面がしばしば見られる点です。やはり村上春樹の描いた文学的世界は、作者その人の人格ほど平凡ではない、と云えるようです。
#練習用