アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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マルグリット・デュラス『ロル・V・シュタインの歓喜』 アリアドネ・アーカイブスより

マルグリット・デュラス『ロル・V・シュタインの歓喜アリアドネアーカイブスより
2012-12-17 13:52:51
テーマ:文学と思想

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・ この小説が持つ不気味な雰囲気は、本の装丁にも表れている。草原と云うよりは、原作を読めば「ライ麦畑」に身をひそめて、「恋人」の密会を「覗き見る」のではなく、「遥かに生々しくも想像する」精神の、色情狂的なあり方、これが分かりやすく云えば、デュラスが設定した小説の枠組みである。しかも、直立して「耳で想像する」女の眼は虚ろで、あらゆる情念の影を予想させない。そして、もしあなたがこの小説の語り手「私」のように、彼女の行動の逐一を追跡して彼女の表情を窺うことが出来るとするならば、二つのまなこが埴輪のようにがらんどうであることに気づくだろう。もしかしたら能面のように空虚な表情は笑みすら浮かべているかもしれないのだ。翻訳者の平岡篤頼氏は、言語を訳し分けるにあたって「歓喜」と「喪心」の両義性に悩んだが、「幸福」と云う言葉でも良かった筈だ。しかしこれではデュラスの最も我慢できないこと、小市民的な情緒が付き纏ってしまう。

 彼女の転回点となった『モデラート・カンタービレ』(邦題:「雨のしのび逢い」)においては、受難パッションと云うキーワードなしには解けない。彼女はより正確にこの小説を要約するものとして、受難と剽窃の関係である、と言い直している。
 『モデラート・・・』においては開幕早々、下階のカフェから強い女の叫び声が聞こえて来て女が殺される痴情事件の断片が語られる。殉教には、被害者と加害者がいて、そしてそれを目撃することが必要条件である。だからアンヌ・デバレードはその「目撃者」なのである。そばから唆すショーバンと云う浮浪者は「密告者」のようでもある。そして今度は「観察者」と「密告者」との間で、「受難」の「剽窃」が演じられる。なぜ「雨のしのび逢い」が「カフェ」と云う準公共的な白日の空間で公然と衆目が注視する場で演じられるかと云う謎は、実は不特定多数の住民ではあれ、誰かに「見られる」ことなしには「殉教」は形式的に完結しないからである。

 ロル・V・シュタインは、十年前のカジノで催された舞踏会の席上で、フィアンセを黒衣の夫人に奪われる。二人の男女は花と密のように互いの運命を瞬時に理解した。つまり決定的瞬間である。
 そして、ここでは通常の心理小説とは違った出来事がロルの内面では起きる。つまり恋人を奪われると云う三文小説的な悲嘆の経験は、ロルの場合、まるで自分の前で演じられた劇でもあるかのように、他人事のようにこのドラマに立ちあいながら、彼女は幸せそうに微笑んでいたとする証言すらあったと云うのである。
 つまり舞踏会での決定的瞬間――受難、があり、それに立ち会う「目撃者」としてのロル・V・シュタインがいる。愛するもの、愛されるもの、そしてこれをドラマとして見届ける三者が愛の必要条件として不可欠だ、と云う訳である。この事件のあとロルは十年間「心を病む」が、それは彼女を取り巻く中産階級の道徳観からしたら却って分かりやすい口実を見出しただろう。十年後、彼女は偶然タチアナと云う昔の親友の不倫を知ることに於いて、「決定的瞬間」つまり「受難」パッションの感性が甦る。
 この小説の特徴は、彼女の「心の病」に関する「精神病医」の「私」による
空想とも想像とも知れぬ叙述が続いた後に、突然、当の「不倫」の相手が「私」であることが明らかにされる。つまり小説の語り手が「不倫」の犯人だったと云う訳である。

 こうして十年の時を隔てて、あの伝説的な舞踏会で演じられたと云うドラマの続きが、再開される。二人の密会の場面には決まって、ロルの夫が姿は見せずヴァイオリンの音として、そして「私」のかっての「不倫」の相手であったタチアナが幻影として、そして職業上の上司としてタチアナの夫が出現する。
 二人は「目撃者」と「密告者」の幻影に囲繞されながら、思い出の場所へと、つまりあの十年前に舞踏会が催されたと云う海に面したカジノの会場へと向かう。それは十年前の「決定的瞬間」が死に絶えたことを確認するためでもある。二人は意を決してカジノのホテルに泊まることにする。つまり後戻りできない状況にあることを確認するために。

 しかしここでも、あの『モデラート・・・』で演じられたと同様の、受難と剽窃の関係は繰り返される。違うのは、アンヌ・デバレードは受難と剽窃の間で引き裂かれ、骸となった身体を引きずるように退場するのに対して、ロル・V・シュタインは自らの名前をローラ・ヴァレリー・シュタインであると思いだしたとき、精神的な意味で「死」が訪れる。
 彼女は、殉教劇の当事者であることも、「観察者」であることも「密告者」であることも区別が付かない。人格の穏やかな溶解と死、そして無関心、堕態としての深い眠り・・・。

 「私」は最後の金曜日、例の≪森のホテル≫でタチアナと逢う。タチアナは来ないだろう。もはや「観察者」としての役割を忘れたローラ・ヴァレリー・シュタインの姿を見いだすために。

”ロルはわれわれより先に来ていた。疲れきって、われわれの旅行で疲れはて、彼女はライ麦畑の中で眠っていた”

 つまり、死骸のようになって!
 子供のような無垢なるものの寝顔には、あどけない微笑みのあとが残っていただろうか。