アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

オペラ『森は生きている』 モスクワ裁判時代の児童劇 アリアドネ・アーカイブスより

オペラ『森は生きている』 モスクワ裁判時代の児童劇 アリアドネアーカイブスより
2012-12-17 22:12:37
テーマ:音楽と歌劇

 

http://profile.ak.fbcdn.net/hprofile-ak-ash4/373117_397373837007062_1061067451_n.jpg  http://ecx.images-amazon.com/images/I/51VVH2NG9KL._SL500_AA300_.jpg

 

 

美しい2012年福岡版の舞台装置
簡素な森の風景は、下部に山車のように台車が付いており、
反転すると城壁がそのまま王女が住む宮殿に一変する
♪森は生きている♪を象徴する焚火は
中央の窪みから燃え上がる

 

http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=4IWGliqei4Q

http://www.youtube.com/watch?v=fpNV2dxj0ig

http://www.youtube.com/watch?v=MQ0nSgIKIv0

 

2012・12・16 18:30~21:00
福岡市立中央市民センター・ホール


  年末の催し物として定着したのか、地味な内容にしては8割方が埋まっている。夕方からの二部の開演と云うこともあって、9割以上が大人の女性客で埋められていると云うのも事情があるのだろう。小さい子供の母親にしては歳を取り過ぎている、むしろ祖父祖母の年代が多いと云うことが目をひいた。
 子供がいない児童劇?なんとも異様な風景である。男女比率の圧倒的格差もまた異様である。異様さをそのまま意識しないそのあり方がより一層異様であるとすら云える。

観劇の諸注意事項と云うお定まりのアナウンスが終わってからかなり時間が経っていた。
 いつの間にか自然に照明が消えていて、幕あきの開始のような殊更な合図のようなものもなく、右手の袖から普段着の女性が何げなく出て来て、いっけん舞台装置の最後の確認しているとも見えて、思い出したように少しステージの段差に腰掛けて背中を見せて感慨深げである。思い出したようにやおら立ち上がって、舞台を右方向から左に過ぎる、業務点検風の所作が、そのまま演劇の開始となる。
 普段着の女性が左側に据えてあるピアノに着席して、譜面用のスタンドの明りを入れると、それで劇が始まりるのだなと分かる。
 歌い手が一斉にステージに飛び出して来る。12人が夫々に違った方向を向いて、合唱が始まる。”♪森は生きている♪”である。

 物語は、わがままな女王陛下がいて、12月の大晦日の日に四月に咲くと云うマツユキソウを森に探しに行く、と云う物語である。そこには一年を表す12月の妖精たちがいて、時を早めてくれる。そうして女王の願いどおりに花は宮廷に届けられるのだが、欲を出した女王は家臣たちとともに再び森を目指すのだが、そこでさんざんと自然の摂理を学ぶと云うものである。


”幕間”の風景19:30分頃
舞台のコスチュームを付けた俳優が劇にちなんだCDやTシャツを売りさばく
CDを”シーデエ”、Tシャツを”テイシャツ”と発音し失笑!を買う


 マツユキソウを森に探しにいっく少女には姉と継母がいて、これはシンデレラ物語のパロディになっている。パロディと云うよりも、最近のニュークリティックの擁護を用いれば、インタ-テクスチャりティ間-主観性、と云うことになるのだろうか。
 また、極寒の吹雪の中で、焚火を求めると云う話では、マッチ売りの少女のパロディ、「間-主観性」になっている。
 森に、幸せの根源、自然の摂理を探しに行く、と云う意味では、青い鳥の「間-主観性」にもなっている。
 それ以上に、1940年代の、見通しの利かないスターリニズム末期の暗き時代をも政治的寓意劇として暗示している。もし、そうした寓意を感受することがなければ戦後の左翼と云うのは余程お人好しの集団だったのである。

 このロシアの民話を踏まえた物語の特色は、わがままな女王を単なる悪役とはしていない点だろう。「マッチ売りの少女」にも女王にも共通するのは、本当の親を知らないと云う履歴上の共通点である。
 しかし我儘な女王とは云っても、少しも子供らしくはない、何かと云うと「死刑」をちらつかせる女王陛下の恣意性と気まぐれは、スターリン時代を象徴しているのだろうか。
 原作では、女王が早く死別した両親は、父王は傲慢な性格であり、母王は気まぐれな性格だった、とある。つまりマルクス主義とロシア型統治の技術は、人類の傲慢と気まぐれの産物であった、と云うのだろうか。
 彼女の配下として、警備隊長、総理大臣と女官長、王室の検事が出て来て何が「正しい」かを議論するところは、スターリン裁判のパロディだろうか。
 それにしても、女王が吹雪の中で行き暮れる時、いち早く女王も見限って逃亡するのもこの四人である。
 警備隊長は赤軍であり、総理大臣と女官長スターリンおひざ元で陰湿な権力闘争を展開したクレムリン宮廷の宦官たちであり、ロシアマルクス主義のゴロツキ息子どもであり、検事はKGBと裏で繋がった密告主義、唯物史観と云う名の法の司祭たち、軍事=宗教裁判所なのだろう、と勝手に想像する。

 女王は、凍え死ぬような森の寒さの中にあって何を学ぶのか。それは「人民の心」と云う1940年代のロシアの声が聞こえてきそうではあるが、そうではあるまい。
 貧しい少女と女王と云うかけ離れた身分の、まるで双子のような存在の女の子たちには、それぞれ疑似的な父親代わりがいる。前者では森でモミの木の伐採を命じられる老兵士であり、後者では家庭教師の訳の「博士」である。老兵士は少女に、一年に一度だけ森の中で一年中の季節が同時に会すると云うページェントがあると云う古老の記憶を伝え、博士の学んだ自然科学とは、「自然」についての学問の謂いなのである。
 この言説の背景には、コルホーズと計画経済下で推し進められた自然の破壊があるのだろう。

 老兵士は、森にひとりで薪拾いに来た少女を手伝ってくれる。博士は、陛下の教育に於いては「御意のままに」と云うことが社会主義政権下では必要にして十分な条件であることを知って、しかもそれを嘆きながらも、やはり自然の摂理は普遍であることを説くときは、命がけで具申する。彼は、ガリレオ・ガリレイの末裔でもあった。

 自然の摂理の荘厳さは、焚火とそれを囲む十二人の輪舞によって、変わることのない年月と自然の輪廻が表現されている。母なるものの存在が具象としては出てこないのは、母なるものは森として、自然として表現されているからだろうか。
 そして自然の中心には母なるものとしての、焚火があった。
 
 ”燃えろ、燃えろ、あざやかに――”、とコーラスはメインテーマを歌う。

 苦難にあるとき起死回生の思いを籠めて、

 ”廻れ、まわれ、指輪よ!”、

とコーラスは歌うが、それは四月の春の精が差し出した婚約の指輪のようでもあり、反故にされた幾多のプラハの春のようでもあり、すこし苦い味わいである。
 乾坤一擲の思い出投げられた指輪はプラハの石畳に虚しく響いたか。

 「博士」は、原作では頭でっかちの頓珍漢のようには描かれていない。女王も傲慢だけの存在ではなかろう。彼女が、博士の教育は命令することに於いて卓越し、お願いすると云う受容性を教えなかったと言って非難するのだが、それは陛下のしもべとしてやむを得ないことでもあったろうし、スターリニズムの時代を生きた知識人の生き方でもあった。
 政治的寓意劇として演出しても面白いのかもしれない。

 もう一つの雪深い国の指輪物語は、幸せと和解の物語でもあった筈だ。
 四月の精が与える「好意」を、少女はいまだ理解できない。それは人類がまだ幼いと云う意味でもある。しかし他方で、自然とは単に与えるもの、人類に恵みを与えるものとしてだけではなく、度外れの行為を少女に奉げることに寄って自らもまた自然界の輪廻を超えていく可能性をも語っている。

 こんにゃく座の演出は、継母親子の自在な我儘ぶりが印象に残った。
 少女を襲う森の狼とまま娘が橇をひいて、舞台の中途の暗がりから突然出現すると云う、舞台と客席の垣根を払うような演出も凝らされている。林光の歌曲も親しみやすい。本格的なオペラの演習をした歌手に歌わせたらまた違う味わいになっただろう。

 劇が終わると、普段では見られない風景が展開した。
 年配の母親たちが見知った相手を目掛けて挨拶披露と永の御無沙汰を述べる壮麗な社交場となる。まことに大晦日を控えた長閑な風景である。戦後の演劇の在りし日の姿、情熱の微かな名残りのようなものをその無邪気さの中に籠めて、澄み渡った冬空を背景に歌う、”森は生きている”のコーラスの遠い響きにひとり感じいった。