アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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デュラス『静かな生活』 アリアドネ・アーカイブスより

デュラス『静かな生活』 アリアドネアーカイブスより
2012-12-19 12:11:08
テーマ:文学と思想

http://www.gutenberg21.co.jp/images/quiet_life_240.jpg

・ デュラスの処女作と言うが、幻のような作品である。処女作には作家のすべてがあるとよく言われるが、それはそうかもしれないが、通常の意味での処女作と云うことになれば、あるいは『太平洋の防波堤』の方が相応しいだろう。実際にこの第二の処女作が開いたデュラジアとも云うべきメコンデルタの風景は、晩年の『愛人』『北の愛人』と、デュラスの生涯を貫いて緊密なシンメトリカルな構成を示している。
 そう言う意味で『静かな生活』は、デュラスの作品群の中でも離れた位置にあるように感じる。

 『静かな生活』は、一つの殺人事件と一つの自殺と一つの出来死事件がある。十数年も昔、北フランスのとある地方都市のブルジョワ階級に育った「私」は叔父が起こした金銭トラブルに巻き込まれ公的な市長の座を放棄せざるをえなくなる。夜逃げするように都会を離れ今は陰鬱な渓谷に面した南フランスの山村にひっそりと詫び住まいをしている。家族は元市長であった両親と、何故か不祥事を起こした叔父、「私」と弟、それから何故か「私」の家にいつくようになった弟の知人、そして家政婦をしていて弟の妻になった女性と二才にならない子供である。それからあと一人、使用人として別棟に暮らす農夫件牧童兼農場管理人の老人がいる。この老人は、最後の場面で旅の終わりに行き暮れた「私」を密かに保護する役割を与えられるのだが、それまでは点景以上のものではない。

 物語の発端は、長年家の厄介ものになっている叔父がいると云う事実がある。やがてその叔父と弟の妻の間に不義が生じる。「私」は弟にそれを密かに伝え、ある日弟は叔父を撲殺してしまう。小説はここから始まる。
 「私」は、寝室で呻きながら死に向かいつつある叔父をいよいよ手遅れになった段階で医者を迎えに行き、医者には馬にけられたのだと嘘を言う。やがて叔父は緩慢な死を迎える。医者も近在のものも色々と不自然な点を認めるが村落生活の常として深く追求しない。
 叔父の死を境に、弟の妻は出て行く。入れ替わるようにかって弟が熱愛していた女性が家に出入りするようになる。一方、劇的なドラマの進行とともに、恋愛関係にある筈の「私」の不思議な関係が、まるで通奏低音のように幾度も繰り返される。それは夜毎に恋人が自分のベッドを訪れないと云う「私」の嘆きである。
 それともう一つ執拗に繰り返されるのは「私」の勤勉ぶりである。しばしば柱のように太い働くために生まれて来たかのような「私」の体型が言及される。「私」は美人ではないのだろう。両親について「私」は自身の美貌の程度について質問するが、魅力的だととは言ってくれるが美人だ、可愛いとは言ってくれない。一方、家にいついた「私」の恋人は不釣り合いなほど美貌の青年である。彼が何故、この家にいるのか、なぜ最後に「私」の求愛を受け入れるのかは、この小説の読了後もなお、謎である。
 通常、一人称の小説と云うと、「私」は作者の代理であり、一応は小説的な世界のことは知っている。あるいは「世界」について全ては知らなくても、読者にだけは信用できるなと云う暗黙の前提を持っている。しかし「私」は読者に対して嘘付きなのである!
 
 第一部の終わりで弟が自殺していたことが判明する。「私」には理由が分からない。良心の呵責なのか、それとも熱愛する恋人を「私」の恋人に奪われたためなのか。「私」は読者に対して釈明しない。
 そう言えば珍しい家族総出のピクニックであからさまな恋人の心離れを目撃した後に、弟の死はある。

 第二部は、傷心の私は傷を癒すかのように十日間程の旅に出て、海辺の一二度口を聞いただけの男の溺死を目撃する。目撃すると云うよりも、目撃すると云うことに気づかないほどの他者に対する無関心さの世界を「私」は生きている。あとで警察から事件として取り上げられてから「私」は初めて「溺死事件」を「了解」する。衆目の批判を浴びながらも「私」は動揺したようには見えない。

 第三部は、家につくまでの内的モノローグと、「放蕩息子の帰宅」の経緯が語られる。家にはそのままスムーズには帰れず、例の牧童の小屋で三日間を過ごす。やがて体調も戻り家に帰って、ふと両親に対して親切になっている自分に気づく。家政が自分ではなく、自分の恋人を中心にして廻っていることを不思議な既成事実を見るかのように、無感動に了解する。つまり、「私」は初めてあのつらい労働から解放されたのである。
 こうして最後のハッピーエンドが来る。「私」は母親に、自分の婚約と云う出まかせを言う。母親はそれを「恋人」に確かめる。「私」は、「恋人」と母親のやり取りから「自分の婚約」と云う事態を「了解」する。この日、母親は初めて車椅子から立ち上がり、自らの手でコーヒーを入れる。

 つまり北フランスの一家没落の物語から家族の蘇生に至るお話しはこのようにして完結するのだが、小説の結びの一行は次の如くである。

”十月の夜は暗く、雷雨で冷え冷えとしていた。”

 この不思議な小説を味わうためには、この小説で決してデュラスが語らなかったことを読みとるべきだろう。
 「私」と弟の関係に近親相姦的な愛を認めるような読み方が可能だが、それは『太平洋の防波堤』などを踏まえた読み方であろう。無碍に却下するつもりはないが、第一部に「私」と弟の関係に言及して、弟の幼年時代の中に自分の幼年時代を生きた、とある。つまり通常の母親が子供の幼年時代に自分自身の幼年期を今一度生き直すように、弟の中に自分の幼年時代があったと云うことになる。これは単純な姉弟愛の美談として読むべきではない。――

 つまりここには『愛人』の、なぜ母親は自分を愛してはくれなかったのかと云う嘆きが潜んでいた筈だ。弟の死後両親が鬱病に堕ちいる様に、明示的には書かれていないのだが「両親は弟を熱愛していた」のである。
 そして、「私」もまた弟を熱愛していた。それはデュラスが『愛人』などの連作で読者にそう思わせたがっていた傾向とは違って、自分の過去を愛するように弟を愛していたのである。だから弟の死は「私」自身の死を意味した。
 家族の絆が全て死に絶えた時、『静かな生活』が実現した。
 家族とは何のかかわりあいもない他人、つまり未来の「私」のフィアンセを中心に家政が廻り始めたのを目撃した時、初めて静かな生活が実現した、というべきだろうか。

 しかしデュラスのこの小説には不思議なところがある。
 本当に「私」が偽悪的に言うように、私は叔父の不義を弟に密告し、弟を唆して死に至らしめたのだろうか。作者がそのように言うのだからそうなのだろう。しかし「私」とは大嘘つきではなかったか。
 北フランスの市長も勤めるような裕福な裕福な家柄に生まれて、それが一夜にして没落し、子供らしさを経験することもなく大人と同等の労働力が期待される、そんな日がその日から始まっていた。手も腰も男のように頑丈にもなったであろう。一家の総領として弟だけは世間の波風からは保護を受け、それが一家の希望でもあったろう。希望と云うより、弟の時間の中にしか「私」は自分の幼年期、人間らしさを見出すことが出来なかったのである。その弟が死んだとき、「私」を支えていた「世界」もまた終わりを迎えたに違いない。その「私」とは家族を支え続けた「主婦」の座にあるものの死でもあった。

 ここにもまたもう一つのシンデレラ物語があったのではないのか。溺愛された弟と早く大人にならざるを得なかった「私」の物語と云う。シンデレラ物語の背景には貧しさの中では誰かが口減らしの対象にならざるを得ないと云う哀しい現実を語っている。昔話はこうして共同体内におけるいじめの経緯を現在に伝えたが、人間らしい扱いを受けない人々の物語は、資本主義社会の中では、それは陰湿な人間的な情緒を剥ぎ取られて、無機的な「もの」をみるような生命なき世界となる。「もの」を見るような眼差しの冷たさが、大時代的なドラマを扱う場合でも現代の風景を伝えている。デュラスは「もの」の風景をかって経験したのではなかったか、つまり誰からも愛されたことがないと云う。

 この小説の不思議さのいまひとつは、作中に幾度か出て来る「あなた」と云う二人称の扱いである。あなたは見るだろう・・・、あなたに訴える・・・と云うような類似の表現があるが、「あなた」とは誰なのか?
 ひとから言葉と人称を奪い、有機性が無機物へと変質する、その資本主義的物象化の過程をじっと見つめる「あなた」とは?